精霊流し

モクジ
「ねぇ」

子供独特の高く澄んだ声が鈴虫の合唱に混じるように耳に飛び込んでくる。

「こんな所でなにしてるの?」

閉ざしていた瞼を静かに上げる。最初に優の目が見付けたのは、ゆらゆらと不安定に飛び回る蛍の光と
「今日はお盆のお祭りなのに」
合わせた両の手の先、目の前の川をゆっくり流れていく小舟が乗せた灯りだった。

「精霊流し」

風避けの和紙越しに柔らかく光を放つ蝋燭に僅に目を細め小さく微笑んだ後、優は短く答えた。



――それは今は亡き人に手向けられた光――




片膝を地に着き、もう片方を立てしゃがみこんだ体勢から無理矢理首を回し肩越しに後方をみやる。藍染めの甚平をきた子供が一人、膝までを草に埋まりながら立っていた。

鈴虫の声の間を縫い、風にのって遠くから祭囃子が聞こえてくる。子供が言った通り、今日は近くの神社で夏祭りがある。

少年――なのだろうか。
子供の顔は祭で購入したのか狐の面に覆われている。やけに長い組紐が頭の後ろで結ばれていてその結び目は短めの頭髪に埋っている。しかし、その長さも女の子のショートカットとそう違うものではなく又、幼い子が皆そうであるように中性的、無性的な声は面のせいで尚更性別が分かりにくくなっていた。背丈から言って小学校には上がってないくらいの年頃だろう。

草を掻き分け、子供は優の横までやって来た。そして隣にちょこんと腰を下ろす。
狐面に優は若干訝しげな視線を向ける。
夏の風物詩とも言える行事だ。毎年多くの人が祭に訪れ、そして小舟を流す。神社側が用意した小舟の配布場所は此処よりずっと川上で、神社からかなり離れたこのあたりは外灯がないこともあり誰も来ない。
今宵は満月とは言え、飛び回る蛍の灯りが少しも霞まない程に辺りは暗い。
今は何時だろうか。電子光はこの場所には余りにそぐわず、携帯で時間を確かめるのも躊躇われた。
しかし、どう考えてもこんなに幼い子供がこんな人気のない場所にいて良い時間ではない。
「……迷子か?」
一向に立ち去る気配を見せず、川上から次々と流れてくる小舟を見つめる子供に優は問い掛けた。子供は小さく首を振る。
「ううん、帰る途中」
「……そっか」
あぶないだろ親、とあったこともない子供の両親に内心ツッコミつつ優も川へと視線を戻す。

もう、優の用事は済んでいた。この子をせめて大通りまでは送っていこうと思いながらけれど体は動かなかった。
もう少し、此処に居たいと無意識が訴える。
「神社から随分離れてるけどいいの?」
子供が尋ねてくる。

むしろそれは優の台詞だった。近くに小路が通っているが此処はもう森の中と言った方が正しいくらいの場所なのだ。けれども、優はこの場所を選んだ。
「向こうはうるさいからここでいい」

まだ、ただの年中行事としてやれるほど割り切れていない。これから先、割り切れるかも解らない。きっと完全に割り切れる日など来ない。

一人で静かに『彼』を送りたいと思ったのだ。
狐面がこちらを向いた。

「……誰か死んだの?」

いっそストレート過ぎる物言いに苦笑が浮かんだ。

「あー…春先に…双子の兄貴が…」
苦笑と共にはぐらかす気も失せて正直に答える。そして、もう『彼』が死んでから半年近く経っている事実に少し愕然とした。
尋ねた子供の方は優の心中の細波など気付く筈もなく、返事を聞いていたのかいなかったのか何のリアクションも示さず川に向き直るとまた言葉を続けた。

「ねぇ、僕知ってるよ」
子供らしい自由さに苦笑を深める。僕、と言うならばこの子はやはり少年なのだろうとぼんやり考えながら子供の言葉に静かに耳を傾けた。
「これは、死んであの世に住んでる人が此方に遊びに来たのを、帰ってもらう為に流すんでしょ?」


思い出したのは白と黒が永遠に続いていくかと錯覚させるあの布地。

抱えた写真写っている自分と同じ笑顔。

「……」

『彼』と優は元々一つだった。
何かの拍子に二つに別たれ、それでも生まれてからの十六年間、二人が離れていた時間は全部でどれだけあっただろう。
もしかしたら、この半年よりもずっと短い時間かも知れない。

それほどに何時も側には『彼』がいた。

「違ぇよ」

「え?」

徐に立ち上がる。見上げてくる狐面に一つ微笑み、口を開いた。
「これは死んであの世に行ってしまった奴等が此方に帰ってきたのを送り出すための灯だ」



――共に生まれてきたとしても、共に死ぬことなど叶いはしないから――


それでも、一つだけ譲れないことがある。死という絶対の理にさえ、曲げさせはしない想いがある。



――せめて――



そうせめて

「来年もちゃんと帰って来いって」

死んでも尚、『彼』の帰るべき場所は此処なのだ、何処よりも、そう天国よりも『彼』が在ることを望まれている場所は此処なのだと、それだけは譲る気は無かった。

冬の冷たさが少しだけ緩んだ空気の中、鯨幕を背に胸に抱いた写真の中に写っているのが自分でないことに実感が持てなかった。
本当に、いつも一緒にいたのだ。隣からいなくなるなんて考えた事もなかった。隣にいることが当たり前、から隣にいないことが当たり前、になるまでに一体どれくらいの時間が必要か自分でもわからなかった。
『彼』がいるならば即ちそれは優のいる場所も本当はそこであるべきでわないだろうかと愚にも付かない事を考えているうちに別れの為の儀式は終わり、周りの人間は悼みながらも『彼』の不在を受け入れていった。
その不在を受け入れることも拒絶することも出来なかった優だけがどちら付かずのままぼんやりと戻ってきたらしい日常を過ごしていった。問答無用に過ぎて行く夢を見ているような日々の中、いつの間にか空気は熱と湿気を帯び、益々脳味噌がぼんやりとしてきていた。

母が用意した割り箸と胡瓜と茄子で出来た不格好な馬と牛を見た時、初めてわかったのだ。
帰ってくるのは『彼』で迎えるのが自分なのだと。
そして、もう一度『彼』を此処から送り出すのも自分の役目なのだと。

だから新盆であることを示す白い提灯の光を尻目に、祭囃子に背を向けてこの場所に来たのだ。



「そっか」

子供が納得したような声をあげる。その声に思想に沈んでいた優の意識は引き戻された。
川の続く先を見やればもう、優の流した小舟は沢山の小舟の隊列の向うに見えなくなっていた。
そろそろ帰らなくてはならない。子供の親も流石に心配するだろう。
最後にもう一度幾つもの灯籠が流れていく川に目をやる。そして静かに口を開く。


一緒に帰ろうか、その言葉は出なかった。



「…そうだね、じゃあ…」

それまで湿った夏の空気を申し訳程度にかき混ぜていた風が止んだ。

祭囃子が聞こえなくなる。
それだけではない、いつの間にか五月蝿い程だった鈴虫も泣くのを止めていた。

川のせせらぎだけが聞こえる限りなく無音に近い世界。
しゅるりと衣擦れのような音がする。
滑らかな物と滑らかな物が擦れる時のその音は組紐が立てたものだった。

子供の顔に狐面を固定していた紐がほどけていく。



「いってきます」


聞き慣れた、しかしここ最近はずっと聞いていなかった声に、もう一生聞けない筈の声に優は反射的に振り向く。

狐面の下の素顔は柔らかく微笑んでいた。
瞠目した優の目の前を蛍の群れが横切っていく。

蛍と、月と、小舟の蝋燭と、決して強くはない光の中心に輪郭を溶かしながら微笑むのは本当に良く見知った顔だった。

洗い晒しのシャツとGパンを纏って目を見開いた優の目の前で甚平を纏って笑んだ『彼』が宵闇と三つの優しい光に溶けていく。

開いた口から言葉は出なかった。ただ、唇が自分の名によく似た音を紡ごうと小さく震えた。無意識に伸ばした腕は途中で自分が見送り人だと思い出したかのように自然に止まる。


その手に狐の面が音もなく滑り込んできた時、優の目の前には誰も居なかった。




再び動いた微風が草木をざわめかせ、鈴虫がどこか遠慮がちに合唱を再開したのをどこか遠くの出来事のように聞きながら優はその場にへたりこむ。
辺りにはもう人の気配はない。


「…なんかなぁ…」
まじかよ?と呟いた声はそのまま消えていく。

思えばいってきますと、言われたのは初めてかも知れない。その挨拶は発つ場所に残された人にするべきもので共に行く人にするべきものではない。だから尚、『彼』が優に向けていった言葉の意味が胸に沁みる。

その言葉が告げられたのならば残された優のするべきことは一つしかない。


――それは死者の足下を照らす光――



果たして『彼』が今から向かう場所は何処なのだろうか。海か、空か。
この川が繋ぐその先。海原と穹蓋の繋がる水平線からゆっくりと灯籠の光が天に昇さまが何となく頭に浮かび頭上を見上げれば満月が煌々と夜空に鎮座していた。

ふと、それに微笑み優は決まり文句を口にするために唇を開いた。



――生者は祈りと共にそれを流す――


「いってらっしゃい」

まるで隣の家に行く相手を見送るような調子で。
けれど強い思いを込めて。
旅立つ魂と共に小さな船に乗り残された者達の祈りは流れる。



――決して君が迷わぬように、と――





おわり
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