Love is War

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彼の男の勝因を一つ挙げるとするならばそれは『運』だ。

末姫であったアーデルヒルトと長子である彼は余りに年が離れすぎていた。
それこそ、親と子と言えるほどに。
故に『王の直系のうち最も優れた者が王位を継ぐ』という不文律が厳然と存在する国の王家に生まれながら、アーデルヒルトの兄はその凡庸さにも関わらず王位に最も近い場所いた。
そして、欲だけは人一倍強い男はアーデルヒルトが選帝候の取り込み工作が、長じたあの国の王族が当たり前のようにおこなうそれが出来る年齢になる前にアーデルヒルトを国外に追い出した。
それも別にアーデルヒルトのその時はまだ秘められていた才を見抜いた結果では無く、ただ幼いながらも類い希な美貌を持つ妹姫を大国の庇護を求める代わりに差し出したに過ぎない。
アーデルヒルト、十才。彼女はこうして超大国、バルドの後宮(ハレム)に入ったのである。


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stray番外編  Love is War
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祖国からの長旅の末、そこだけでアーデルヒルトの生国の都はまるまる入りそうな王宮の最奥にたどり着いた夜、彼女は皆が寝静まった頃を見計らい与えられた部屋を抜け出した。



明日には夫となるこの国の王と面会することとなる。

――ボタリと紫水晶の瞳から大粒の水滴が零れ落ちた。

中庭にある東屋の椅子に腰掛け、軒先の上の月を見上げながら、無表情のままアーデルヒルトは涙が溢れるに任せた。

夫――?笑わせるな。
王という生き物にとって子を孕めぬ女など妻ではない。
未だ月のものがないほど幼いアーデルヒルトが妻になれるはずもないのだ。
特に長男相続が絶対視されるこの国にで、数多の后が長子を産もうと企むこの後宮(ハレム)において、アーデルヒルトが子供が産めるような年齢になるまで王が子供を作らないとは考えにくかった。

「っく…」
遂に嗚咽がこぼれ出る。
せめてこの輿入れがこの国の王家に祖国の血を混ぜるという使命を帯びたものならばよかったのに。

兄や他の后に立ち向かう覚悟はある。
その為の教育も十分に受けてきた。
剣や盾を持つわけではないがこれは戦いだ。
そして王族として生を受けた以上は王位を得るために、または他国に嫁ぎ次期王を産むために戦うのは宿命だとアーデルヒルトは思っていた。

なのに、彼女には戦場に上がることすら許されないのだ。
兄はアーデルヒルトを后としてではなくまるで珍しい特産品を献上するかのように差し出した。

王族としての決意も誇りも奪われ、ただ美しいだけの人形として扱われる事がアーデルヒルトには我慢出来なかった。
愛玩品であることになんの価値を見いだせなかった。

口を開けば兄への呪詛が溢れそうで、しかし負け犬の遠吠えのようなそれをするのには矜持が邪魔をし俯く事さえ出来ない。
だからアーデルヒルトは夜空を見上げたまま月を睨み唇を噛んで涙を流し続けた。

いっそ、兄の目論見を叩きつぶしてやろうか、と昏い考えが脳裏を過ぎる。
差し出した人形が献上したその日に壊れてしまったら、あの暗愚な男はどのように言い訳するのだろうか?

いっそこのままここで自らの命を――


「どうかしたのかい?」


唐突に降ってきた声はまるで凪いだ海の細波のように穏やかだった。
こんな真夜中に後宮(ハレム)の庭の片隅で人に会うとは考えもしなかったアーデルヒルトは細い肩をビクリと震わせて背後を振り返った。
その勢いで上を向いていた為に溜まっていた涙までもが一気に張力を失い決壊して頬を伝っていく。

声をかけた相手はその様子を見て驚いたようだった。
そしてアーデルヒルトもまた相手を見て瞠目した。

男だ。
しかも警邏の宦官とは明らかに違った服装をしている。

「あっ…」
相手が何者か気づきアーデルヒルトは小さく声を上げる。後宮(ハレム)にいる高貴な男など一人しかいない。慌てて膝を付き礼を取ろうと立ち上がった。けれど膝を折る直前にアーデルヒルトの体は宙に浮く。
「きゃっ」
「君は今日此処に来た子だよね?」
男はアーデルヒルトの悲鳴にも頓着する様子もなく抱き上げると優しく背中を撫でた。
「小さい、とは聞いていたけれど…まだ本当に子供じゃないか」
男はそう言って顔をしかめたがそれはアーデルヒルトからは見ることが出来なかった。
あからさまな子供扱いにアーデルヒルトの中で反発心が頭を擡げる。
けれど気づいてしまった相手の正体と、そして月影に照らし出された男の金髪がキラキラとしていて余りに綺麗なせいで何も言えなくなる。

「陛下っ…!」
頬を真っ赤に染め、アーデルヒルトは叫んだ。
「うん?」
男は――バルド王は小首をかしげつつアーデルヒルトの顔を覗き込む。
「母君や祖国(うち)が恋しいのかい?」
声の響きと同じ様にまるで砂浜に寄せては返す細波の様に揺るぎなく、穏やかに一定のリズムでポンポンと優しく背を叩かれる。
それは間違い無く赤子を寝かしつける動作であった。

「部屋まで送ろう。寝てていいよ?」


相手が相手なだけに何も出来ず、最初は身を堅くするだけだったものの暫くすると包まれる体温と長旅の疲れと優しく刻まれるリズムに結局アーデルヒルトの瞼は落ちていった。


****


「…ヘルガ?」
「おはようございます姫様。昨夜は本当に肝が冷えましたわ」
アーデルヒルトが目覚めると目の前では遠い祖国から連れてきた馴染みの侍女が柔らかく微笑んでいた。
「今度夜にお散歩なさる時は必ずヘルガをお連れくださいね」
笑顔だけでなく纏う雰囲気が柔らかいヘルガはその与える印象とは裏腹にテキパキとアーデルヒルトの朝食の準備と身支度をこなしていく。
「…ヘルガ、私(わたくし)は昨日…」
「バルド王への今日のお目通しは中止になりましたわ。先方から大分疲れている様子なので今日はゆっくり過ごすとよい、と。」
ヘルガの言葉に昨日の事が夢ではないと悟ったアーデルヒルトは頭を抱える。
ヘルガは困ったように、眉尻を下げ言った。
実際に深夜、寝室で寝てるはずの幼い女主人が王に抱きかかえられ帰ってきた時の衝撃はそれこそもう、礼も碌に言えなかった程すさまじかったのだ。
けれどその衝撃を押し隠し、口角は相も変わらず笑みの形を刻んでいる。

あっという間にアーデルヒルトの手の中に暖かな紅茶が収まる。
紅茶の香りを湯気と共に吸い込み、それを深い溜め息と共に吐き出した。

「この国の後宮(ハレム)に慣れたら改めてお目通りの機会を戴けるそうですから」
「別に良いわよ」

気遣わしげに掛けられた言葉をにべもなく切って捨てた。
「会わなくてすむならその方が良いわ。こんなに沢山妃がいるんだから私が侍らなくても問題はないでしょう?」
「確かにバルド王には支障はないでしょうが…折角のご縁ですし…」
「ヘルガ」
「…はい」
「手に入らない物を目の前にして何も出来ないなんて私には耐えられないわ」

まだ半分近くカップに残る紅茶を突き返す。

視線を僅かに足もとに落としたあと、ヘルガはそれを受け取った。

「代替え品で満足するような安いプライドは持ち合わせていないわ。そう私を育てたのは貴女よ?」
「………存じております」

ヘルガはこの五年、この小さな少女を主と定めてからの日々彼女へと自らの手で施した教育について思った。
女王たれと。覇者たれと。
アーデルヒルトはヘルガの、否、アーデルヒルトを女王へとする大人たちの言葉を十分すぎるほど受け止めて来たことをヘルガは誰より知っていたのだ。

「二度と、王には会わない。私はここで静かに老いて死ぬわ。」
幼い子供が言うには余りに不似合いなセリフにヘルガは瞠目する。

そして痛感する。
アーデルヒルトをこんな風に育ててしまったのはヘルガなのだ。

「ヘルガ?」
「――申し訳ございません」
思わずもれた謝罪の言葉。
けれどアーデルヒルトはそれを受け入れなかった。
ただ歳不相応な冷めた目でヘルガを見遣っただけだった。


「私と共に此処で朽ち果てなさい。私たちは負けたのだから」
「…御意に」


そう、もう二度と会うことはないと思っていた。
数多の妃の一人にしか過ぎず。
そして妃として欠陥品の自分。
彼の王にとって自分の価値もないのだから。


けれどその予想はあっさり裏切られる。


「やぁ」

そう言って綺麗に笑う顔は完全にアーデルヒルトの理解の範囲を超えていた。


何故この人は私の部屋(ここ)にいるのだろう?

横では突然の王の来訪に慌てふためく侍女達の姿。
当然だろう。
この国の後宮(ハレム)に越してきてまだ二日。
ヘルガをはじめとした侍女達によってとりあえず住まいの体裁は整えられてはいた。
けれど王を迎えるならばそれは不十分過ぎると言わねばならなかった。

「なんで…?」

酷く幼い響きの声。
質問には答えられず、何の前触れもなく現れた王は今、照明の魔具に封じられた精霊(ジン)の出す月光より明るい灯に照らされている。
暗闇を剥がしてもなお劣る事のない美貌と、豊かな金の髪。
寝巻なのか趣味のいい体を締め付けないデザインの服を纏った様は王、と言うより御伽話王子様のような出で立ちだった。

にこり、と再度微笑むと王は昨夜と同じ様にアーデルヒルトを抱き上げた。
「陛下…!!」
昨夜と同じようにアーデルヒルトも思わず声をあげる。


「マーニ」
笑みを深め王は言った。

「僕はマーニ」
「あ、わ…私は…あの…アーデルヒルト…と申します」

マーニが鷹揚に頷く。
「こんばんわ、姫。アディってよんでいいかな?」


****


小麦色の豊かな髪を結いあげ、豪華なドレスに身を包んだ女が窓から夜空を見上げている。

「もう、四日。陛下は今日もおいでにならなかったわ…」

長い睫毛が灰色がかった緑の瞳に影を落とし、その彩度を更に落とす。憂いの表情のまま女は部屋の中を振り返る。

「ねぇ、ハティ。何がいけないのかしら?」

整えられた食卓は迎えるべき客人が来ない故に無意味な物と化していた。
上品なテーブルクロスの上に鎮座する最高級の葡萄酒を招かれざる男は一気に飲み干す。

「お前、それ本気で言ってんのか?」

「だって、『あの事』はああするより仕方がなかったのよ」

美しい顔を歪め、下唇を噛みながら女は絞りだすように言った。
男はそんな女を横目に尚も葡萄酒を無遠慮に手酌であおり続ける。

丸々一本を飲み干すと男は独白のように言った。

「まぁ、気にすんな。兄上だってローゼンベルクを敵に回そうだなんて考えちゃいねぇよ。今はただ少し抵抗しているだけだ。だから、まぁ気長に待てよ。この後宮(ハレム)でお前と正妻の地位を争うほど度胸のある奴ぁいねぇよ。」

視線を憂い顔の女に流し男は酷薄に笑った。

「そうだろ、リアトリス?」

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