Love is War

「久し振りだね、アディ。元気にしてたかい?」

三日ぶりにアーデルヒルトの元を訪れたマーニの顔を見た瞬間、不覚にもアーデルヒルトは泣きそうになった。そんな彼女の様子に気が付いた風もなく、マーニは何時ものようにアーデルヒルトを抱き上げ、そして顔を覗き込む。
そこで初めておや、と首を傾げた。

「顔色が優れないようだけど?」
「……」
何も答えず、幼子が抱上げてくれた父にするようにアーデルヒルトはその首に腕を回し抱き締める、というよりしがみついた。
マーニの目が少し見開かれる。

今まで首尾一貫して(寝惚けている時を除き)アーデルヒルトはまるで大人の様にマーニに対して振る舞ってきた。
口調は元よりその行動さえも落ち着いた大人の女性という風で、初めて出会った時の泣き方でさえマーニは内心成熟した女性の様な泣き方だと思っていた。そんな彼女が初めてみせた子供らしい仕種に一瞬驚いたものの直ぐに優しく微笑み、頑なに顔をあげようとしない腕の中の子供に話し掛ける。

「どうかしたのかい?」
「……貴方のせいです」
答える声までも拗ねた幼子そのままで、マーニの笑みは知らず深くなる。
「陛下が私を甘やかすから私、一人じゃ寝られなくなっちゃったじゃないですか…」
微かに涙声で成された訴えに寝室へ向かいながらマーニは答えた。
「…忙しかったんだ…ごめんね?」
寝台へとたどり着いた後もアーデルヒルトはマーニから決して離れようとはしなかった。
仕事が終わったあと外宮から直接きたマーニは夜着に着替えようと一度離そうとしたアーデルヒルトが自分の服を確り握ったまま眠りについてしまっていることに気付くと苦笑しながらも、慌てるヘルガを下がらせそしてそのまま二人で寝台に入り込んだ。


******



「どうしよう…ヘルガ…」

珍しく困り果てた声で呼び掛けて来た女主人にヘルガは微笑ん問いを返した。

「何がでしょうか?」
無論、ヘルガにはアーデルヒルトが言いたいことは判っていた。
「陛下は妻として私を好きなんじゃないわ。それは理解してるの。なのに、何のために私の元に来てくださるのかがさっぱり理解できないの」
アーデルヒルトが困っているのは本当はそんな事ではなく、ただ最早マーニの添い寝無しには眠れなくなってしまった自分に困っているのだ。
ヘルガはそれを重々承知した上で何食わぬ顔で答える。
「直接おうかがいになれば如何でしょうか」
そんな当たり前の問いにアーデルヒルトは黙り込んでしまう。

その理由を知った所で何にもならないのだ。
知りたいのは最早、『何故アーデルヒルトの元へ来てくれるのか』ではなく『どうすればアーデルヒルトの元へ来続けてくれるか』なのだから。


****



考えあぐねたアーデルヒルトは次の日この後宮(ハレム)に嫁いできて初めての外出をした。
無論後宮(ハレム)の外に出ることは出来ない。ヘルガだけを共にアーデルヒルトが向かったのは『黄金の鳥籠』だった。

そこは静かな場所だった。
男子禁制の後宮(ハレム)において唯一女人禁制の区域である。
「少々お待ちください」
しかし、ヘルガは普通に警備の宦官に近寄っていくと直ぐに満面の笑みで帰ってくる。
「今取り次いで頂けるそうです。暫くお待ちを。」
アーデルヒルトは呆れたように僕(しもべ)を見やる。
「貴女いつの間にここまで人脈を広げたの?」
ふふ、と声をあげたあと清廉な笑顔のヘルガはしゃあしゃあと答えた。
「流石に姫と陛下のお世話と平行して交遊関係を広げるのは骨が折れました」

生き生きとしたヘルガを胡乱な顔で見返し、案内されてついたのは家具も装飾も殆どない青色の部屋だった。

まるで水の中に居るようなその部屋は鳥籠、と言うよりは水槽のように思える。
数少ない家具の一つであるソファの上に人影を認め、二人は立ち止った。

「あれ?君は…」
初対面時のふざけた印象からは意外なことに、ハティは本を読んでいた。視線を上げ、アーデルヒルトとヘルガを見とめると一瞬だけ視線を鋭くする。

「何故、陛下が私の元へ通ってくださるか教えていただけませんか?」

アーデルヒルトは単刀直入に言い放った。
ハティには隠す気は無さそうだった。膝の上の本を閉じ、ソファにだらしなく腰掛けていた体をきちんと直すと口を開く。
「子供じみた反抗だよ。」
「それは、ローゼンベルク公に対してですね?」
「…驚いたなぁ、知ってたんだ。兄上は即位に際して公爵から多大な支援を得てる。と言うより、公爵が兄上を王にした。」
「本来太子は別の方でその方が病でみまかられた時に、ですか」
「……本当に良く知っているね。太子には兄上とはひとつ違いの同母弟がいた。太子の母であった父の妃はその弟を王位につけたかったみたいだね。母上はこの国の弱小男爵の娘、一方その方は重要な同盟国の姫君。本来太刀打ちなんてできる筈ない相手だったんだけどね公爵が『長子相続の原則を破るべきでない』って言って兄上を王位に押した。内戦寸前までいった争いも公爵が収めた。」
「異母兄弟たちは粛正され、異母姉妹たちは皆国外に嫁に出された。強引なやり方ですわ」
ヘルガが調べてきた情報を口にしたアーデルヒルトにハティは苦笑してみせた。
「仕方がないよ。兄上には政治の才が欠けている……悪い人ではないんだけれどね」
「随分はっきり不敬を口になさいますわね」
「事実だからね。兄上だって自覚しているよ。この国を今動かしてるのはローゼンベルク公だよ。為政者として兄上よりずっと国の為に働いている。外戚の地位くらい貰って当然だと思うよ」

ふとハティは口をつぐんだ。

「…ねぇ、姫。君が望むならばどこか公爵格の家に降嫁出来るよう取り計らってあげる。だから兄上をリアトリスの所に返してあげて」
懇願、とも取れる声色。
「今、王家の王位継承権は俺しか持ってない。もし余りに兄上がローゼンベルクの意に添わなければ兄上の命が危うい。君は兄上に懐いているんだろう?」
アーデルヒルトの双眸がきっとハティを睨み付けた。
「臣下たる公爵が陛下に害を加えると?」
怒りに紫水晶の瞳を燃え立たせ、きつい口調で詰め寄る。
「彼の忠誠の対象は国だからね」

アーデルヒルトは踵を返した。
背中からハティの声が追ってくる。

「公爵だけじゃない。今国の中枢にいる臣下は殆どそうだ。兄上には今の難局にある国の舵取りをやる器が無いことを皆知っている。だから…」
リアトリスの邪魔はするな、とハティが言うか言わないかの内にアーデルヒルトは『黄金の鳥籠』を出た。

「……どう?」
周りに人の気配が無いことを確認しヘルガに尋ねる。
影のように音もなく付き従っていたヘルガは困ったように眉根をよせた。
「恐らく、王弟殿下が仰られた事は真実かと」
「どれが?」
「全てです。陛下の下知された政策は何処かずれていますし、何より悪意ある家臣の進言も簡単に信じてしまわれる。誰でも簡単に信じられる、と言えば聞こえは良いですが君主たる者が臣下の器を把握できない様では……」
「そう」
ヘルガがそう言った以上その言葉は真実なのだろう。
他でもない自分に政のなんたるかを教えた侍女の言葉に小さく頷く。
「陛下自信に忠誠を捧げる臣下はどれ位いるのかしら?」
「……一つ、まだ正確でない情報を申し上げても?」
ヘルガは普段きちんと裏をとれた情報しか奏上しない。
そのヘルガが酷く真剣な表情で言った言葉にアーデルヒルトも居ずまいをただす。

「……バドル王には既に御子がいられる可能性があります」

「え?」

「件の太子の生存時から王にお仕えしてた侍女が最近郷里に帰された事になっています。私は接触を図ろうと致しましたが一向に行方が知れません。丁度その頃から後宮(ハレム)の妃たちが流出し始めています。とある降嫁されたお方付きのお医者様の中から悪阻の女性が廊下で倒れているのを診たという証言が……姫?」

一ヶ月もたたない内によくも此処まで、と普段なら感心するを通り越して呆れてしまうようなヘルガの情報収集能力だが、今回は少し勝手が違った。
別に話に付いてこれていないと心配したわけではない。沢山の情報を一気に捌くのにアーデルヒルトはとても長けていた。

「…失礼いたします」

ヘルガはアーデルヒルトを抱き上げると速足で部屋を目指す。
「顔色が優れない見たいですが」
人の気配のない廊下を選びながら歩く腕の中、アーデルヒルトはヘルガの首に腕を回す。こんな子供じみた仕草で接された事などかなり久し振りの事でヘルガは内心とても驚いていた。

「……もし後宮(ハレム)で身籠った事が解ればすぐに噂になる。身籠った女が此処から出れば尚更よ。幾ら権力があったって一公爵が直系の誕生を隠すなんて不可能だわ。その噂がないと言うことは国のトップにいる人の相当数が公爵に加担してその女を隠したんだ、といいたいんでしょ?」

弱々しい震える声でアーデルヒルトは呟いた。

「かつて掲げた『長子相続』の御旗に背いても国の安定を選んだ人がそれだけいるとなれば、そうね。都合が悪くなれば陛下のお命を狙う逆徒もでてくると思うわ。」
ヘルガの言いたかった事はきちんと伝わったようだった。けれどか細い声は常の覇気や威厳もなく主のその様子は侍女を狼狽えさせた。
「姫…?」

「でもね、ヘルガどうしてかしら。陛下の命を狙う者がいるのは死ぬほど腹立たしいのに、陛下に御子がいるのが…」

否、そうではない。
アーデルヒルトは子を産めない。
だからその内他の妃が王子や王女を産むのを端から見ることになるという事態などずっと想定してきたのだ。

「違うわ。陛下に子をつくられるほど愛された女性がいるのが辛くて堪らないの…」

マーニは誠実な男だ一時の肉欲に任せて侍女に手を出したのではないだろうとアーデルヒルトには容易く想像できた。
「胸が…痛いの…」
主の思わぬ告白に瞠目したヘルガは全て聞き終わると何時もの柔らかな笑みを浮かべ、無言のままアーデルヒルトの背を優しく撫でた。



****




その夜、マーニがアーデルヒルトの元を訪れた際、迎える少女の表情はとても厳しいものであった。
違和感を感じたマーニが首を傾げる間もなくそれまで固く結ばれていた小さな紅唇が開く。
「陛下はリアトリス様やローゼンベルク公に復讐するために私の所へ来てくださるんですか?」
思わぬ言葉にマーニの表情も固まる。
「御自分の愛された女性と御子を後宮(ハレム)から追い出した御二人が憎いから、でも御二人には玉座に付けて貰った借りがあるから、腹いせに私の所で寝られるのですか?他の妃と違い、まだ子供の私ならばリアトリス様方も多目に見てくださると思って?」
「アディ…ちょっと待ってくれ、何処でそれを」

そこまでいってマーニはハッとする。

これではアーデルヒルトの言葉を肯定したのも同じだ。

「私を出汁にするんですね、ならばもう十分でしょう。リアトリス様の所へお帰りください。一人で眠れぬ夜を過ごす方が幾分マシです」「……!!アディ、違うんだ」

アーデルヒルトの顔が奇妙に歪みマーニは慌てて彼女を抱き上げた。今までならばすぐに力を抜いて預けてくる小さな体は今日はマーニを拒絶するように固いままだ。

「君が言うとおり『彼女』と僕の子は後宮(ハレム)を追放された。けれど仕方ないんだよ。僕は無能な王だからローゼンベルク公の助けなしには国を治める事など出来ない。公が助けやすいように僕は公に外戚の地位を上げなきゃいけないんだ。それが無能な僕に出来る王としての唯一の仕事だから。だから復讐なんてする気はない」
「…ならば何故私の所へ来るんですか」

マーニは苦し気に首を横に降った。わかりあえない事が悲しくて仕方がないと言う風だった。
暫く言葉を探すように口を開けたまま呼吸を繰り返す。

「君が…泣いていたから」

遂にその息が言葉の形を成した時、マーニの双眸から涙が零れ落ちた。

「え?」

アーデルヒルトは思わず間の抜けた声をあげる。
「こんなに小さい子が国の勝手で遠い国にやって来させられて…母君からも離されて…泣いていたから…君を泣かせたのは、君を不幸にしたのは…僕だ…」
マーニの涙は止まることはない。

アーデルヒルトには解った。
きっとマーニには国を追われた自分が後宮(ハレム)を追われた我が子に重なって見えたのだ。
「私を御子の代わりになさるおつもりですか?」
何故だか無性に悲しくなった。
成る程、祖国の兄は思わぬ良手を打ったらしい。彼の差し出した人形は見事王にとって無くした子の代用品となった。結局自分は人形でしかないのだと、求められているのは人の形をした愛でるに値する美しき物でしかないのだと、その事を他でもないマーニに思い知らされたのだ。
アーデルヒルトは唇を噛んだ。

後宮(ハレム)に来た夜以来の涙を堪える。
今、涙が零れれば、あの時と違い泣きわめいてしまうと思った。
そんな無様な真似をしたくなかった。
けれども気概とは裏腹に視界は歪む。

「アディ、聞いてくれ」
突然マーニの腕の力が強くなった。
暖かい滴が頭頂部に降り注ぐ。
「僕は君に幸せになって欲しいんだ」
震えた声がアーデルヒルトの頭上から降ってくる。
「僕の子供の代わりなんだろう、って君が思うのも当然だしそう言う気持ちが無いと言えば嘘になる。けれど僕は本心から『君』に幸せになって欲しいんだ。僕が出来ることならば何をしてでも。これは僕の我が儘かも知れない。この後宮(ハレム)には他にも僕のせいで不幸な人間が沢山いるだろう。その全てを幸せにすることなんて僕には出来ないけれど君だけはせめて泣かないで欲しいんだ。偽善と言われても構わない。僕は王としても父としても欠陥品だけれどどうか君のために戦わせてくれないか」

今度は別の意味で泣きそうになった。

マーニはいってくれたのだ。確かに子の代わりに見ているところがないわけではないが『アーデルヒルト』の幸せを願っていると。
今この瞬間、アーデルヒルトは間違いなく生涯で一番幸福だった。
「…私を幸せにしていただけますか?」
アーデルヒルトが尋ねる。
マーニはその声に先刻までとは違う落ち着きを感じ、ほっと息を吐いた。
「あぁ、君が後宮(ハレム)を放れるまで」
マーニがいつかアーデルヒルトをどこかの良家に降嫁させる気でいることがそれでわかった。けれどアーデルヒルトはその言葉に余りショックを受けなかった。
確信していたのだ。
自分が幸福になれる場所は間違いなくマーニの傍らなのだと。だから、大真面目に言われた誓いを軽く聞き流す。
腕で未だ涙を流すマーニの頭を抱え込む。小さな掌で金の髪を優しく梳いた。

マーニの弱ささえアーデルヒルトには愛しくて堪らなかった。
そして泣き顔も愛しくはあったがやはり笑顔の方が好きだった。これから先、彼がアーデルヒルトの為以外には泣いて欲しくは無いと強く思
った。

「僕は君を幸せにして見せる」

再度繰り返された近いに心底の笑みを浮かべ、アーデルヒルトはマーニに聞こえないほど小さな声で呟く。

「ならば、私は貴方を守るわ」

今は子供に対するような気持ちでも構わない。
けれどいつかマーニにも自分がマーニに感じるような気持ちを感じてほしい、そう強く感じながら、アーデルヒルトは今までマーニが見てきた中で最も美しい表情で笑いかけた。



****




「私は祖国での王位争いに負けたわ」
ヘルガを前にアーデルヒルトは言った。
その声は本来幼子が持ち得ないほどの覇気と風格があった。
「私は戦場を追い出されたのだから」
ヘルガは膝をつき深々と頭を下げる。
「でも私は此処ではまだ何も始まっていない。此処は王の寵愛を争う戦場で、私は妃よ、年齢なんて関係ないわ。私は今まで自分の幼さを盾にして逃げてきただけ」
言い放ち、そして目の前の臣であり師でもある侍女をみやる。

「貴女はそんなこと教えていないでしょうヘルガ?」

ヘルガが教えたのは戦う術だった。
剣を持ち地を駆けるのではなく、己の目的を達成するためにあらゆる手をつくす権謀術数だ。

「…仕上がりはどう?」
「八割、と言った所です」
「一週間あげるわ。その間に私の意思を完全に遂行出来るよう準備
を整えなさい」
「…御意に」
答えるヘルガの声が微かに震える。
「私は陛下の隣の場所が欲しいわ。誰かの代わりではなく陛下の隣にいたいの。私はこれ以後、私の望みを妨げる者とあの人を傷つける者を敵と認識する。全力で戦かい、殲滅する」
その整いすぎた顔面に壮絶に美しい笑みを浮かべ、アーデルヒルトは高らかに宣言した。


「始めましょう、これは戦争よ」



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