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28

「マナ。」

私が与えられた広い庭に立てられた小さな離れの宮は小さいといっても平均的な日本の家よりは大きい。
そして王宮の名に恥じない豪華さだった。
正味な話この豪華さは普段の生活には全く必要のないものだと思う。
だって金糸を織り込んだ絹布団じゃなくたって寝れるし、天蓋部分なんて存在意義がわからないし。

そんな寝台(寝台の台部分の金の装飾だって快眠度には何も影響はないだろう)の上で覚醒と共に聞いたのは今までよく聞いていた落ち着いた低い声ではなくここ二週間で聞くようになったまだ幼さも残す声だった。

「…おはよ、ポチ君。」
「おはよう。早く起きろよ。」
侍女服に身を包んだポチ君は私の着替えを放る。

ポチ君は今、シンシアの隠密として動いたり、私の世話を焼いたりしている。
どちらもシンシアの命令だ。彼のしたことを思えば首を傾げざるを得ないがシンシアもポチ君も気にした様子はない。
余りに不思議である時ふと聞いてみればポチ君は何でもないことのように言った。
「この国がその気になれば俺の国を滅ぼすなんてそれこそ赤子の手を捻るより簡単だからだよ。正直俺一人捨て置いた所でなんの支障もない。」
「ポチ君の国って――ポチ君、本名すら言わないじゃない。」
「そこは俺の意地。」
そこでポチ君は小さく自嘲気味に笑った。

ポチ君は未頑なに自分の国の名も自分の名も言わなかった。
だから、こうやってかなり自然に話すような仲になったにも関わらず、私は未だこのふざけた名で彼を呼んでいる。

「自分に向けられた刺客を飼って楽しめるような滅茶苦茶な王族がいれる位、この国はそんだけ本来絶対的な力を持ってるんだよ。俺らは奇跡的にそれをひっくり返せるだけの力を得たわけだけど…」

その奇跡的な切り札は私のせいで無に帰した、と。

「なら、あらゆる反逆の手段を奪われた俺に今から出来ることは媚びることだけだ。どんだけ辱められようが笑いものにされようが俺はシンシア姫に媚びる。媚びて媚びて、国を滅ぼさないように懇願する。」

その言葉が余りにも揺るぎなかったから、私は何も言えなかった。
ポチ君がやった事は大それた事ではあったが私はそれを悪と断じることが出来ない。
友達であるシンシアを傷付けようとしたことは許容できない。
けれどポチ君と話せば話す程、私はこれほど真っ直ぐに祖国を思い行動する彼を悪とは言えなくなる。
もしかしたら今私がいる国こそ『悪の王国』かもしれないんだし。

物語のように絶対的に『善悪』を区別する事は現実では本当に難しい。

それにこの二週間はシンシアが何か忙しそうで余り遊ぶ事も出来ず、かといって他の侍女さんたちには太后様に働いた無礼のせいで敵意を持たれ、まともに交流があるのはマリアさんとポチ君くらいだったのでポチ君とはかなり打ち解けた。
一度殺されかけたが、もうポチ君に対する悪感情は大分払拭されている。

「今日の予定は?」
「午前は久しぶりにマスターと会って午後にはシンシアと久し振りにお茶。」

ポチ君が眉をしかめる。
「マスターって…なんでローゼンベルク将軍の僕(しもべ)のお前が後宮(ハレム)でこんな好待遇受けてるんだよ。」
ポチ君は私がリドワーンと主従であることは知っているが私が元精霊王(イブリース)であることは知らされてない。
私も出来れば教えたくない。
もし、ポチ君が暗殺に失敗した、ポチ君のアガシオンが呼び出せなかった原因が私に在ることを知られてしまったら。
そんな事でポチ君との仲を壊したくなかった。

私の隠し事は『そんな事』、では済まないかもだけれど。

「ポチ君も一緒に来る?」
話題を変える為に尋ねる。
男であることがバレないようにマリアさんは他の女官さん達と会わないようにしているが、見た目完璧美少女のポチ君はその必要もない。

「あのなぁ。」
ポチ君は呆れた表情を作った。
「俺は一応敵国の人間だぞ?さっきはあぁ言ったけどもしこの国に不利な情報を手に入れたら迷わずつかうぜ?」

「私だってそんな大変な情報知らされてないから大丈夫。」
リドがうっかり機密情報を漏らすとも思えないし。
私が元精霊王(イブリース)であることさえ漏らさなければ問題は無い筈だ。

それにシンシアは多少の情報が漏れた所で気にも留めないだろう。
密者として使う以上避けられないことなんだし。
そんなことではバルドは揺るがないという絶対的な自信をシンシアも太后も持っているようだった。

「私まだ後宮(ハレム)の構造よく知らないからさ。迷子になりたくないしついてきてよ。」
拝むように言えば、仕方がないという風にポチ君は頷いてくれた。


後宮(ハレム)で唯一外宮の人が入れるのは通称『謁見の間』と呼ばれる一室だ。
後宮(ハレム)と外宮の境界付近にあるその部屋は兎に角豪華で本来は王に嫁いだ妃が家族と会うのに使われるらしい。
そのせいで、外からの客は一段低い場所に置かれた席に座るし迎える側と尋ねた側の間には薄い紗の御簾がかかっている。

「リドはまだっぽいね。早く着きすぎたわ。」
「俺はこの衝立の裏にいるからな。」

その時部屋に女官らしきひとが入ってきた。
お茶を運んで来たらしい。
「将軍がおいでになったらまたお淹れしますので。」
「あ。どうも。」

人払いは苦手だ、と言うか人に命令したりするのが苦手だ。
だから、別に喉は乾いていなかったけれどとりあえずカップを受け取り何となく口をつけた。

まぁ、人払いとかはあとでリドがやってくれるだろうし。
それにしても早く来すぎたかもしれない。
まだリドが来る気配もないし。
それにしてもこの紅茶苦いなぁ。

マリアさんのマリアさんの紅茶は美味しいのに。
あぁ、大して話す事もないけど会うの二週間ぶりだしなぁ。
マリアさんの事とか報告したりしなきゃ。
ポチ君やシンシアの事も言いたいことあるし。

それから――

音は大して立たなかった。
床に敷かれた絨毯がカップを優しく受け止め、そして中の紅茶が染みをつくっていく。

やばい。
高そうな絨毯なのに――っていうか、アレ?

「ごふっ…」

「おい!!!」
衝立の裏からポチ君が飛び出してくる。

アレ?
何か私――今?

咄嗟に口元を抑えた手が赤黒い。

何が起こったかわからいまま視界が一気に暗転した。




******

人の気配に立ち止まったリドワーンは己の名を耳に声の方へ首をまわした。

「リドワーン」


振り返れば長いローブを纏った隻眼の老人は柔和に微笑んだ。
「老師?」
疑問符がついたのは僅かな違和感を感じたからだった。

アル・アーシャーに宿る彼の人と同じ形をした精霊(ジン)は普段は鏡像として姿を現すが、希にアーシャーそのものの姿をとる。
遙か昔、アーシャーが若かりしころにはそれでよくからかわれた――とはリドワーンの師でもあった先代将軍の言であった。

「そうじゃよ。」
しかし勘は外れたらしくリドワーンはしっかりと向き直りこの宮廷の長老とも言うべき相手へ踵をそろえ敬意を表した。
王族を除き、ほぼ最高の位にあるにも拘わらず、身分や出自ではなく単純に年長者に対しているという理由でなんの躊躇もなく礼を取る相手にアーシャーは益々笑みを深くする。
そして徐に口を開く。

「お前さんの耳にあるそれのことじゃが…マナか?」
金茶の髪の隙間から見え隠れする黒を示しアーシャーは尋ねる。

それの事を誰かに話した記憶はリドワーンにはなかった。
しかしアーシャーの情報網の凄さを知るリドワーンが肯定を示せばアーシャーは俄かに表情を強ばらせた。
それに眉根をよせ、リドワーンは怪訝な声をあげる。

「何か問題でも?」
アーシャーはその不思議な虹彩を持つ隻眼でリドワーンを見つめた。

「妙じゃと思わんか?」

アーシャーの顔からいつもの笑みが消える。
「儂はこれまでかなりの時間をかけマナを観察してきた。こちらに来たての頃あの娘は夜に眠ることもままならなかった。」

その理由は明白だった。
あの少女は繰り返しただ一つの望みを口にしてきた。お兄ちゃんを返して、と。

「こちらに来てあやつは確かにハルトの消息に関して異世界では考えられないほど接近した。されどハルトは未だマナの側にいない。それどころか判明したのは最悪と言っていいほどの状況だ。もし、マナとハルトが『儂等と同じ』ならば、精霊(ジン)が自らの愛し子に迫る危機を前にして錯乱せぬ筈がない。」

リドワーンはそこでアーシャーの言いたいことを悟った。
そして同時に納得する。

「落ち着きすぎている…と?」

確かに最近の彼女の行動のベクトルは自分やマリアにも向いている。
以前、王宮に来たばかりの彼女は全てが兄に向いていた。
この変化は此方の世界や自分達に慣れたという単純な理由で片づけるには急激過ぎる。

「あやつは今はほぼ『完璧な只人』だ。じゃけれどその衣を棄てれば『全知全能』でもある。」

この世界に起きるすべての事象を識るというかの精霊王(イブリース)の魂を持つ少女。
自己申告では全く使えないらしい力だが、もし彼女が落ち着いているのがその力を使って兄の安否を無意識に感じ取っているならば――つまりアーシャーはマナが精霊王(イブリース)としての力を欠片でも取り戻しつつあるのではないかと、そう言いたいのだ。

リドワーンにも確かに思い当るところがあった。
確かに最近の彼女の行動は精霊(ジン)を彷彿とさせるものがある。

少し、確かめてみてくれんかとのアーシャーの言葉にリドワーンは一つ頷いた。
タイミングの良いことにこれから彼にはこれからマナと会う予定があった。
今、正にその為に後宮(ハレム)への道を歩いているのだ。
否、アーシャーはそれを知った上で話を振ったと考えるべきだろう。
アーシャーは了解の合図に目尻の皺を一段と深い物にする。

「それでは…」
「リドワーン!!!」
別れの挨拶を遮ったのは少女の悲鳴だった。
まるで空気が凝固したかのように忽然と人影が現れる。

「シン?」

纏う色以外、貴き血に連なる姫君に瓜二つの少女の形をした精霊(ジン)は彼の愛し子を映し取った可憐な顔を蒼白にしてリドワーンの袖にすがりついた。
「落ち着け、何があったんじゃ?」
アーシャーが息も絶え絶えといった態のシンに声をかけた。

「マナが…」
か細い声が形のよい唇を戦慄かせながら音を絞り出す。

「マナが…毒を盛られた!!!」
「「?!」」
「兎に角、後宮(ハレム)の謁見の間に来い!!」

用件だけを手短に告げ、ざわりと輪郭を溶かしてシンは掻き消えた。



リドワーンが後宮(ハレム)において唯一外の者が入れる部屋に駆け込んだ時、中は人だかりが出来あがり怒声に似た叫び声が飛び交っていた。
その中心には横たわる小さな体がある。
「!!将軍?!」
宮廷医の一人がリドワーンを認め、場所を明け渡した。
リドワーンはそこに膝をついて床の少女を見つめた。

荒い息、震える体、閉じられた目、顔色は紙の様に白く脂汗が滲み出、口や元服の胸にはどす黒い赤がついている。

どう見ても尋常ならざる様子にリドワーンは表情を常にもまして堅くする。

「…マナ…」

答える筈が、答えられる筈がないとは知りながら呼んだ声はしかし、閉じられた瞼を小さく動かした。

周りで宮廷医達が驚きの声を上げる。
同様にリドワーンも驚いていた。
医師の目からも、また剣を振るう者として人より多くの死に接してきたリドワーンの目からも、今の彼女はまさに黄泉に半分踏み込んでいるようにしか見えない。

マナは薄く目を開くがその焦点は定まることはない。

「…リ…ド…」

荒い息の合間に雑音のように声が漏れる。

「…た…くな…い…」
リドワーンの名を呼んだ後、マナはか弱く声帯を震わせた。



*****

寒い、痛い、暑い、苦しい。

圧倒的に襲い来る感覚の前に私は為す術もなかった。

頭上で沢山の人の気配がする。
皆、なにか叫んでいるようだけど自分の鼓動の音が五月蠅くて言葉としては頭に入ってこない。

激痛に精神が狂わないように自己防衛で靄がかかったような意識の中、怖くて堪らなくなる。

それはふと、悟った死の恐怖だった。

嫌だ。

やっと見つけたのに。
やっと辿り着いたのに。


『大丈夫だ。』
――お兄ちゃん。
『辛いなら、全部夢だと思って忘れちまえ。』
――帰りたいよ、お兄ちゃん。
『兄貴を信じろよ。』
――信じてるよ、だから傍にいさせてよ。

『お前は俺の妹だからな。』
――まだお兄ちゃんの妹でいたいの。



「…マナ…」

混濁した意識の中、静かな声が降ってきた。
騒音のような声の渦の中、私の耳はその声だけを鮮明に拾い上げた。

激感は引かない。
けれど、限界だと如実に訴える肉体を、魂は裏切って動かす。

契約者の声に背くなと。

私はその瞬間やっと、この世界での『契約』と言うものの重さに気づいた。

リド、お願いだからそれ以上呼ばないで。
もしリドがこれ以上私を呼ぶならば魂はきっと肉体が鼓動を保つための最後の力を奪ってまでその声に応えてしまう。

なんとか鉛のように思い瞼をあげる。

「       」

息をするのに精一杯の自分の声が上手く言葉を紡げる筈もない。
けれど私はそこにいるであろう私の主に必死で懇願した。

ただ一言、死にたくないと。


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