stray

10

小さかった私は怖い夢を見る度に隣の部屋のお兄ちゃんへと泣きついた。

お兄ちゃんは私を抱きしめて、赤ん坊にするみたいに背中をたたきながら言うのだ。

「大丈夫、それは夢だ。」

いくつの夜、その声に包まれて眠りに落ちれただろうか。
何度も何度も、繰り返しそんな夜を過ごした。
何度も何度も、繰り返しやっと納得した。


お兄ちゃんが言うならばきっとこれは夢なんだ。


これは記憶じゃない、夢だ。

破壊と殺戮に彩られた夢―――


夢なら目を覚ませば薄れて消えゆくものだから

私は全部忘れることにした。











「マナっ、髪を梳いてあげるからこっちへいらっしゃい!!」

マリアさんの声に促されて私は彼女の前に置かれた椅子に座った。
自分でそれぐらいできると言っても少しも聞いてくれないから、もう異議を唱えることはあきらめていた。

「今日も後宮(ハレム)に行くんでしょ?ならお洒落しなきゃね。」
「まぁ、あそこは確かに美人多いですけどシンシア…姫が美人過ぎて私としては競う気すらなくすっていうか…」
「あらあら、流石は傾国の美姫と歌われた太后の子ね。」
クスリとマリアさんは笑った。
シンシアのところは美人親子らしい。
ならば、尚更私が勝てるはずもない。
自分の母親の顔を思い浮かべて乾いた笑いが漏れてきた。
お母さんごめん。

「そんなに、美人なんだ太后様。」
「それはもう、実際国を傾けた傾国の美貌よ?半端なもんじゃなわ。」

傾国の…ってのは普通ただの修飾語だろう。
実際国を傾ける美貌っていうのはちょっと想像できないんですけど。

「先王は太后を愛するあまり彼女の不信を買わないように他の妃を全部後宮(ハレム)から追い出したのよ。太后の美しさに自信をなくして自分から出て行った者も多いって聞くわ。で、当然離縁された者たちは他国の王族やこの国の超有力者の娘でしょ?ゴタゴタが大勃発したわけね。大体後宮(ハレム)なんて美人しか入れないのによ?しかも、当時太后はまだ十かそこらよ?!どんだけ美人なのかしら?私たちみたいに下々のものはお目にかかる機会なんてないけど、一回見てみたいわよね。」

そうか、昔は日本でも婚姻が外交の有力な手段だったんだっけ。
この世界ではまだそうなんだ。
それじゃなくても自分とこの娘が何の咎もなく追い出されたら、親としては我慢ならない話だろう。

と、いうことは

「それを恨んで誰かが王様を攫ったってことはないの?」

ならばそこから犯人をある程度絞りこめるのではないのだろうか。
「でも、もう二十五年位前の話よ?それに先王の妃なんて百人以上いたし。だいたいうちは大国なんだから喧嘩売る馬鹿はそうそういなわ。」
恨まれていると決めつけるには時間がたちすぎているし、とりあえずで調べるには数が多すぎる。
いろんな国からお妃さまをとっていたなら調べる地域も広大だろう。
「だいたい、国を滅ぼしかけてるのはどっちかって言うと当時じゃなくて今のことの気もするわ。当時のゴタゴタは先王ご自身がお決めになったことだから表だって色々言う人は殆どいなかったのね。結局騒ぎは沈静化。でもね、普通王には何十人も子供がいるものだけど、太后は陛下と姫、お二人しかお産みにならなかったの。そのせいで王位をめぐる混乱が現在進行形で表だって起きてるでしょ?」
そう言う意味ね。
無意識に溜息がでた。
「眉間に皺よってるわよ。リドみたい。」
飼い主に似るほど長く飼われてはいないつもりですが。

犯人の手掛かり…
そこで一つ唐突に思いついた。

「そっか、精霊(ジン)だ。」

老師はイフリートを使役できるものはめったにいないと言っていた。
そして、犯人はイフリートであるキミ―よりも強い精霊(ジン)を使ってお兄ちゃんと王様を攫った。
ならば
「犯人は強い精霊(ジン)を持ってるんですよね?そっから絞り込めないんですか?」
「うーん…それはね。」

「だからお前が呼ばれたんだ。」
話にリドが割り込んでくる。
「全知全能の精霊王(イブリース)ならば陛下を拐した者の正体も知れるだろうと…な。」
そんなにじとっとした眼でこっちを見ないで欲しいんですが。
そりゃ、ご期待に全く添えない役立たずですけど。
「精霊(ジン)の間では力の差は絶対なのよ。だからいくら下位の精霊を集めた所で高位の精霊(ジン)には近づくことさえできないの。」
「だから結局怪しい動きをしている組織や国を虱潰しに当たるしかない。今ゲイル達は総出でその作業をしている。」
「高位の精霊(ジン)って、そんなに力があるの?」
「そうねぇ、私は詳しい事は知らないけど、シャイターンを使役できれば一流。イフリートクラスならば大国が好待遇で引き抜きにかかるけど、そんな人五十年に一人出るか出ないかだし。だいたいただのジンでも使える人の絶対数が少ないのよ。うちみたいな大国でも宮廷魔術師は五十人もいないわ。」
ってことは、ゲイルさんや老師は魔術に関しては天才なわけだ。
「ゲイルは確かに昔から神童と呼ばれるくらいの奴だったが、老師は違うな。老師はマジュヌーンだ。マジュヌーンには才能何ぞいらん。」
「どう言う意味?」
「詳しくは本人にきけ。ただ、マジュヌーンは精霊(ジン)に愛された者がなるらしい。」

精霊(ジン)に愛された者。
精霊(ジン)が人を愛する―――

「ちょっと待ってよ。でも精霊(ジン)に憑かれると気が狂ったりするって、老師は言ってたよ?好きな人にそんなひどい事するの?」
「俺もその辺の詳しい事情は知らん。ただ、精霊(ジン)はたとえどれだけ人に似た形をとろうが人間とは根本的に違う生き物だ。行動原理も思考回路も全てが違う…お前の方がそこは分かっているのではないのか?力をなくしたとはいえ、おまえは元精霊(ジン)だろう?」
厭味ったらしい。
何度も繰り返すが本当に私は覚えていないのだ。
「覚えてないんだってば。」
「だが限定的な記憶はあるのだろう?」
「くどい。私が精霊(ジン)に関する知識を出し惜しみしてるっていうの?お兄ちゃんの安全が係ってるのに?!」

あればとっくに言ってる。
大体役に立たない自分に一番苛立っているのは私だというのに。
「私も精霊王(イブリース)だった魂が何を思ってこんな風に記憶や力のの取捨選択をしたんだか分かんないのよ。」
なるほど、確かに人と精霊(ジン)の思考回路は違うらしい。
自分(実感はあまりないが)の考えらしいたことが全く理解できない。


本当に、何故、私はこんなに色んなことを忘れることにしたのだろう。

でも―――何だろう、私、何か忘れてる気がする。
精霊王(イブリース)としてではなく、人間として。
『忘却』を望んだ気がする。


「まぁ、本当にその辺に興味が湧いたならアーシャー様に教えていただきなさい。」
険悪になった雰囲気を払拭するように、マリアさんが言った。
ぼんやりとした思考は霧散し、一瞬後にはどうでもよくなった。
精霊王(イブリース)の思考よりも昔の私の思考の方がまだ想像つく。
きっと要らないことだから、忘れたのだろう。
「でもマナ、貴女も歯痒いでしょうから私やリドにはそう言う態度でもいいけど、姫にそんな態度とっちゃだめよ?姫だってあなたと同じように陛下が行方不明で心配でしょうし。」
諭されるように言われて私は素直に自分の幼稚さを恥じる。
「…すいません。」
なぜだか、マリアさんの言うことは素直に聞く気になれる。
頭を撫ぜられても子供扱いされたと不快になることもなかった。

「さぁ、そろそろリドもマナも出かけなさいよ。」
柔らかな声に見送られて、邸を出た。







途中でリドと別れて私は後宮(ハレム)に向かうことにした。
リドの執務室との間ならば、なんとか迷わないで行けるようになってきたしリドに気を利かせたというのもある。

リドは最近何だか忙しそうだった。
王様の不在で色々企む輩が多いそうだ。

「シンシア姫の傍にいてお心を慰めてやれ。」

と言われてここ数日は毎日のように後宮(ハレム)にお邪魔している。
まぁ、執務室にいた所で、何の役にも立てないからいいのだけど。
慰めるも何もシンシアはいつも上機嫌だった。
シンシアにとって私は初めてできた同世代の友人らしい。

「だって、マナはどんな身分も超越した存在だし。」
とは彼女の言葉。

私も超美少女に泣きそうな顔をされて
「マナは私と友達になるの嫌なの?」
と言われて肯定できるほど冷血ではない。
何より、お兄ちゃんに好意をもってくれているシンシアを嫌う理由がない。
と言う訳で、私は昨日付けでこの国のお姫様の親友に任命されていた。

今日は何やら珍しい茶葉が手に入ったからそれで持て成してくれるらしい。
長い外廊を気持ち速足で歩く。

「げ。」

思わず小さく声を上げたのは、前から歩いてくる人物のせいだった。

宰相と呼ばれていた中年の男。
向こうも私を見つけてあからさまに顔を顰めた。

「今日は情夫は一緒ではないようだな。」
すれ違いざまに言われる。
情夫ねぇ…相変わらず思考が助平おやじな相手に心の中で盛大に舌を出しつつ、黙って頭を下げてすれ違おうとする。
この手合いは相手をしだすと面倒臭いのはどこの世界でも変わらないだろう。
「飼い主から礼儀も教わっておらんのか?」
侮蔑の籠った声が背中を追いかけてくる。
生憎私の飼い主は躾には興味ないようですよ、と胸中でだけ返事をしておいた。
「後宮(ハレム)に飼い犬をやるというのは何時か後宮(ハレム)を乗っ取るという将軍の意思表示だろう?」
品位が低い人と喋ると自分まで下品になる気がするから聞こえないふりを決め込む。
「将軍に伝えろ――母君の恨みを晴らすのも結構だが私がいる限り次の玉座には正当な後継者が就かれる。貴様の出番はない、とな。」
まるでリドが王位を簒奪するかのような物言いだった。

その言葉を信じる気はさらさらない。
宰相の言葉とリドの言葉、どちらを信じるかなんて考えるまでもない。
それは、リドが私の主であるとか以前の問題だった。
リドには王様への気持ちを私に取り繕う必要なんてないからね。
リドは王様のことを本当に大事に思っているはずだ。

だからそんなの気にしないけど、ただ『母君の恨み』というところに小さな引っ掛かりを感じる。
話の流れ的にその恨みの対象は――王様?

王様はリドを疎んじている。
リドのお母さんは王様に恨みを持っている。

またひとつややこしい問題が増えた。
しかもこれで打ち止め――という事も無さそうである。
「まぁ、シンシアに少し聞いてみるくらいなら…」
せめて、王様とリドの不和の理由くらいは。
昨日リドには結局聞けずじまいだったし。
自分に対してする言い訳の空しさを自覚しながら、私は後宮(ハレム)へと急いだ。





少年は顔を伏せたまま歩いていた。
『ここ』に人は少ないがそれでも用心に越したことはない。
ただ、今少年には自分が「ツイて」いる自覚があった、まるで天の助けのような幸運の連続。
『ここ』に来た時だってそうだった。
偶然に騒ぎがおこり、そのおかげで簡単に潜り込めた。
潜り込んだ後も疑われる事なくここまでこれた。

何より―――主のために献身できる幸福。

だから、たとえ命令違反だとしても少年にはなさなければならないことがあった。
期待された情報はひとつとして得られていない。
だから、せめて、主の道を妨げるモノを排除する。
排除して、そして、逃げ切る。
それが叶わないならばこの身を―――

そこまで考えて少年は頭をふった。
できるはずだった。
主から下されたこれさえあれば―――

「行くぞ…レキ。」
少年の手の中の短剣と中指にはめられた指輪が鈍く光を反射した。



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