stray

14

青年は小さく息を吐いた。
もう、『青年』と称されてしかるべき年であるはずなのに彼の顔には少年のような無邪気さが隠れることなく浮かんでいる、と同時にまるで年を経た老人が孫を慈しむような穏やかさもその目には確かに宿っていた。
その二つは混ざりあって互いを損ねることはなく、むしろ青年のともすれば煩くなるほどの存在感に柔らかさを添えていた。
彼を突然襲った出来事はイレギュラー中のイレギュラーであったが、青年は驚くほど柔軟にそれを受け入れた。
少なくとも彼にはこの現状の根源的な原因であるらしい少女を責めるという選択肢は端から存在しておらず、ただ今頃彼女が自分をどれだけ責めているかのみが気がかりであった。
青年の妹は傷を抱えたまま、それを悟られないように振る舞うのが異常に上手いというとてつもなく難儀な性質を持っていた。

それでも、自分か若しくは両親が傍にいればまだ、問題無い。
しかし生憎両親は共働きの上今が掻き入れ時らしく毎年この時期は子供が疎かになるのが通例だったし、それでなくても彼女ならば無為に両親を心配させるような真似をするはずもない。

そして、自分はどうやら今彼女とは違う世界にいるらしいから傍にいてはやれない。

それならば少しでも彼女の心痛を減らすために大人しくしとけばいいのはわかっているがそれが自分に出来るならば苦労はなかった。
彼女が今自分の置かれてる現状を見れば泣かれるくらいではすまないかもしれない。

「どうすっかなぁ……」

区切られた空を見上げ呟いた言葉は同じ頃遠く離れた、けれども確かに繋がっている空の下で同じように目の痛くなるほどの青色を見上げている少女には届くことなく冷たい壁に反響して霧散した。








憎らしいほど晴れ上がった空を見上げ、白亜の宮殿の無駄に(としか見えない)長い外廊を実に堂々と歩く背中を追う。
すれ違う人は皆廊下の端に避け、リドが通るまで深々と頭を下げてくる。
最早お馴染みとなりつつある光景にけれど少しの居心地の悪さを感じたまま、私はリドと共に一路老師に呼び出された場所を目指していた。


「あれ…ここって…」
辿り着いた場所には見覚えがあった。
ただ、だだっ広く何もない四方が白で囲まれた部屋。
私が最初に呼び出された場所だ。
中にはゲイルさんと老師がいる。
「普段は宮廷魔術師が大がかりな術式を行う時に使用する部屋なんですよ。有り体に言えば王宮で一番魔術が発動しやすい部屋です。」
出迎えてくれたゲイルさんは穏やかに笑いながら丁寧に説明を加えてくれた。
中心にはマンホール大の魔法陣が描かれている。
けれどそれは私が不本意にも見慣れてしまった『召喚式』ではないらしい。
「ジンやジャーンは存在がとても不安定です。自我も殆どなく言葉も満足に喋れない。これは本来契約者の許しがなければ確固たる存在としてあれない低級精霊(ジン)を魔力の無い者にも見れるようにと契約者以外の魔術師が行う術なんです。」

実は昨日シンシアと共に勉強することになったので私はマリアさんに精霊(ジン)に関する最低限の一般常識を教えてもらった。
その時から少し気になっていた疑問点をこの際だから聞いてしまう事にする。
「下から二番目の階級の精霊も『ジン』って言うんですね。」
「そうですね。まず全て纏めて精霊(ジン)という括りです。その中で特に低級で人語も解さないようなレベルを『ジャーン』と呼びます。その後は力の強さごとにシャイターン、イフリート、マリードとなります。しかしシャイターン以上は精霊(ジン)として突出した力を持ったものに与えられる呼び名ですので第四位のジンとはかなりの隔たりがあると思って頂いて結構です。」

なにやら、頭がこんがらがりそうだが、用はベン図を想像すれば良いらしい。
全体集合がジン。
言葉を喋れないものの部分集合がジャーン。
強い力を持ったものの部分集合もあって、それは上から順番にマリード、イフリート、シャイターンと区分けされている――と言うことでいいのだろうか余り自信はないが。


「今回のアガシオンはジンが入っているらしいので……なんとか飼い主の名前を喋ってもらえると良いんですが。」
穏やかな微笑みを陰らせ、ゲイルさんは後ろの魔法陣とその傍らに立つ老師に視線をやった。

「それでは、始めましょうか。」
導かれて魔法陣の近くに行く。

ゲイルさんはポチから取り上げた指輪を陣の真ん中に置いて、精神を集中させるためにか目を閉じた。

空気が痛いほどに張り詰めたのを感じた。

そこからはまさしく『魔法』だった。
空に掲げられた杖の石突きが鋭く床を打つ。
途端部屋の灯りが全て落とされ、薄闇が辺りを支配した。
反射的に身を固くし、そして魔法陣をみて瞠目する。

淡く光りだした魔法陣の中心にユラユラと緋色に揺れる煙のような物が漂っていた。

よく見ると深く窪んだ目と開かれた口のような影がなんかが頭部と覚しき場所に確認できるその様は心霊写真に移った幽霊のようで思わず一歩後じさった。
正直ホラーは苦手なんです。
本気で勘弁してください。
及び腰の私とは対照的に他の三人は身じろぎもせずに視線を魔法陣の中に固定したままだ。
仕方がなく逃げ出しそうな自分を叱咤してその場に留まる。
リドの巨体の影から伺うように見遣っていると、老師がゆっくりと口を開く。

「レキ…とか言ったのう。飼い主の名前を聞きたい。」
魔法陣の中のレキは逡巡するようにユラユラと揺れる。
が、僅かに反応を返したものの沈黙を破ろうとはせずただ不安げに輪郭を揺らすだけだった。
というか、そもそもこの形状の物体に発声が可能なのだろうか。

「ミスハル。」
私が素朴な疑問に思いをめぐらせているうち、平坦な声で老師がミスハルを呼んだ。

それに応えるように姿を現したのはもう一人の老師とも言うべき枯れ枝の如き老人――ではなかった。
魔法陣の中にレキと同じく不安定な、しかしずっと濃い霧のような形が現れる。

手だ。
それも途轍もなく巨大な紫色の手。
その紫の手がレキの体を掴む。

霧が煙を掴めるのかというどうでも良いような疑問点に到達する前に部屋中に響きわたったのは神経を直接切り刻まれるかのような絶叫だった。


「キイィィィイィイィィイ!!!!!」



思わず目を瞑り耳を塞いでその場にしゃがみ込む。

何これ?

心の奥底に澱のように沈んだ不安や怒り、あらゆる負の感情がその声とも言えない音にかき乱される。
脂汗が額に浮かび、胃から何かがこみ上げてくる。
――これは、拷問だ。

人に対する物ではない。
ジンに対する拷問。
それ故か、リドもゲイルさんも老師も少しも躊躇を見せず苦痛を与える手を止めようとはしない。

金属音に似た叫びは言葉としては意味を成さず、だからこそ尚更にミスハルの手の中にいる精霊(ジン)の苦痛を雄弁に語っていた。

痛い、苦しい、助けてと――

「おい、」
頭上から静かな声が降ってくる。
「顔が死人みたいだぞ。」

当たり前じゃない!!
この叫び声を聞いて、眉一つ動かさないあなた達の方が私には信じられない!!

叫ぼうとして口を開けば尚一層胃の中のモノを戻しそうで慌てて口元を押さえた。

「おい…?」
なおも降ってくる声よりも魔法陣の中の光景に全神経が引きつけられる。
紫の手の中で緋色の煙が崩れ出す。
早くこの声を止めて―――!!!!!
お願いだからもう――




「る…ルシュ…ディ………」

正に息も絶え絶えといった風情で絞り出された単語にピクリとゲイルさんが反応した。
「ルシュディー…?」
ゲイルさんの声に一旦ミスハルはレキを締め付ける手を弛めたのか悲鳴が止む。
「知っているのか?」
「…はっきりとは思い出せませんが何処かの国の王にそんな名の者が。」
「リヒテじゃな。」
「リヒテ?北の小国か?!」

悲鳴が止んだことにより私の吐き気もなんとか沈静化して、それでも肩で息をしながら私のわからない単語の羅列を聞くとはなしに聞く。
そしてなにやら難しい話をし始めた三人を余所に魔法陣に這うように近づきそこへと手を伸ばした。

「マナ?」
気づいたリドが怪訝そうな声を投げかけてくる中私は指輪を取りあげる。
霧のような紫の手がどうしたものかと言うように形を変え始める。直ぐ手の上にはに鏡写しの老師の形を写し取ったミスハルが現れ、何処か不安げな顔でおい、と声をかけてきた。

「それを離して。」

喋ることも億劫で短く最低限の意思を告げると益々困惑したような顔でミスハルは老師を見やった。
「マナさん?どうか致しましたか?」

別にどうもしないです。
もうあんな声を聞きたくないだけです。

「もう…目的は済んだでしょう?」
「はい一応は。しかし……」
「あれ以上やればこの子が死んじゃう。」
ペシっと紫の手を叩けばおずおずと手が開かれる。
すかさずその手から抜け出したレキが私の持つ宝石の中へと逃げ込んだ。

「マナさん…しかし…」
何かを言おうとしたゲイルさんの言葉を余所にレキが指輪に消えるや否や私は深く安堵し、その途端気がゆるんだのか再び吐き気が額が割れるような頭痛を連れてやってきた。
「痛っ…」
「マナ?!」

気持ち悪い、頭痛い、ついでに全身が痛い。

「とりあえず外で空気を…」
「ああ。」
リドに抱きかかえられて、私は白い広間を出た。







「流石は元精霊王(イブリース)ってところですか。」
部屋に残されたゲイルシュターは老師に向き直り言った。
「そうでは無かろう。精霊王(イブリース)に取ってあの程度の精霊(ジン)は羽虫と同じじゃろうに。」
大体、と続ける老師の言葉を途中でミスハルが継いだ。

「精霊(ジン)の王は人の王とは違う。下位の精霊(ジン)を庇護したりしない。或いは眷族ならば手を貸しはするが…かの精霊王(イブリース)には牽族は居ない筈じゃ。あれは、ジンの負の感情に中てられたんじゃろう。魔力のない人間ならよくあること。」
「眷族ですか…」
ゲイルシュターはどこか苦く笑った。
それは彼らが少し前まで血眼になって捜していた物だった。
何度も空振りする召喚は精霊王(イブリース)が伝説にしか過ぎないのではないかという疑心を若き王の中に生んだ。

存在の確証が欲しくて、只でさえ宮廷魔術師総出でしか行えない召喚術の最中、眷族で良いから召還しろと命じられて――無理だと何回も奏上した。
名指しで精霊(ジン)を召喚するにはその精霊(ジン)固有の召喚式が必要となる。
その召喚式は呼び出され、使役された精霊(ジン)が主の死により契約より解放された時に極稀に残していくものだった。

この国には始祖王が崩御する時に残されたという召喚式が国宝として伝わっていた。
しかし歴代の王は一度もそれを用いたことはなかった。
それは、もはや王権の正当性を示すために脈々と受け継がれる王冠と同じ意味しか持っていない筈だった――

この手段以外で精霊(ジン)の名指しの召喚は不可能。手当たり次第に召喚して特定の精霊(ジン)に辿り着くなど砂漠でただ一つの宝石の粒を見つける事ほど難しく、尚且つ本当に存在するかさえ怪しい宝探しと同じだった。
勿論ミスハルも何度も彼の精霊王(イブリース)が唯一柱の眷属さえ持たないことを何度も告げはしたのだが。

「陛下は…怯えていらした。自分が助かる道は精霊王(イブリース)の召喚しかないと盲信していらした。本来ならば私が御心を安んじて差し上げねばならなかったのに…私が無力なばかりに。」

ゲイルシュターの独白に老師は片方だけの目を細めた。
「後悔しておるのか?」
老師にはゲイルシュターの気持ちはわからない。
三代の王に渡り魔術師長を努めてきた老師にとって忠誠の対象は王家であり、国家である。

しかしこの年若い彼の後継者も、あの武骨で不器用な将軍も唯一人に徹底的に献身している。
その姿は年老いた老師から見れば痛々しいほどだ。

そしてもう一人――彼女の姿もまた老師には痛々しく映る。


「儚き人よその命尽きるまで絶対の献身と忠誠を――お前がお前である為に。」


ぼそりと呟いた嗄れた声にゲイルシュターは涼やかな声で答えた。
「アガシオンの誓句ですか?」
それは精霊(ジン)がアガシオンになることを承諾する――あるいはさせられる時に唱える誓句だ。
この言葉を以て、精霊(ジン)との契約は完了する。

老師は首肯しながら考えた。
ゲイルシュターは天才である。
故に彼に取ってこの言葉は呪文以上の意味を持たない。
理解など伴わなくとも、彼の才は不勉強を補って有り余る力を発する。

反して老師は凡夫たる自分を知っていた。
故にこの言霊を行使するため深くこの言葉を理解する必要があった。
いや、むしろ、自分がこの言葉の真意を知るのは自分がマジュヌーンであるからかもしれない。

しかし、おそらくこの言葉を理解せねば彼の少女を理解するのは無理だろう。
同じことは彼女と契約した男にも言える。
もしかしたら、と老師は今この部屋のすぐ外にいる二人に思索を巡らせる。

もしかしたら――彼は彼女が自分ととても似ているがゆえに彼女を理解することは一生叶わないのかも知れない。








「落ち着いたか?」
庭の東屋まで連れ出されて外の空気を吸うとだいぶ落ち着けた。
「うん……ねぇ、リヒトって?」
手の中にはまだ指輪がある。
この指輪に宿った精霊(ジン)、その主がリヒトの王らしい。
「ここからは大分離れた北の小国だ。馬で三月はかかる。この国の属国にあたる筈だ。」
私の顔色がだいぶ良くなったからか、それまで傍らに膝をつき顔を覗き込んできていたリドは東屋に備え付けの椅子の一つに腰をおろした。
「これは、案外当たりかもしれん。」
「え?」
「リヒトは遠い。近隣の国にもばれていない陛下の不在がリヒトにだけ漏れるとは考えにくい。」
「じゃぁ…」
「マナ、それをよこせ。」
私が手持無沙汰にいじくっていた指輪を示され、私は胸に抱きこみながら首を横に振った。
「お前にはどうせ使えんだろう。」
それでも、何故だか嫌だった。
例え私の知らないところでとは言え、さっきのようなことが繰り返されることがたまらなく嫌だった。
「大丈夫だ。もう、その精霊(ジン)には手は出さない。」
ならば、何に使うというのだろうか。イフリートを持っているゲイルさんや老師がいればジンなんていらないだろうに。
私の頑なさにリドはため息をついた。

「リヒトとの間には何国かある。それらも属国とはいえ王不在と知れれば反旗を翻す国もあるかもしれん。リヒトに兵を出せば何かあったことを感づかれかねんだろう。あんな北の小国本来は歯牙にもかからない相手だからな。つまりはリヒトに簡単には派兵ができない。とりあえず、向こうが素直に答えてくれるかわからんがまずは密使を送る。それには、向こうがこちらを探っていた証拠であるそのアガシオンを持たせた方が交渉に有利だ。だから、それを渡せ。」

普段はどちらかと言えば無口なリドの長口上をまだ少し痛む頭で必死に理解しようと努める。
「お前も平和的に話し合いで解決したいだろう?」
小さな子に諭すように言われて仕方なしに指輪を渡した。

「邸に帰ってるか?」
「いい、このまま後宮(ハレム)に行くよ。昨日の件もあるし。」
リドは少し顔をしかめたがそれでも、そうかと短く言うと部屋の中に消えていった。

私はその後姿が消えたのを見届けて、立ち上がりまだふらつく足で後宮(ハレム)へと歩みだした。
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