stray

18


本当に腰をぬかすかと思った。


先刻までのざわめきが嘘のように白亜の廊下は静まり返っていた。

ここに立ち並んでいるのは精巧に作られた人形なのではないだろうかと疑いたくなるほど物音一つしない。
呼吸音さえ響きそうな静寂の中、廊下の向こうから衣擦れの音が聞こえてくる。

すぐに紗の天蓋に覆われた輿がゆっくりと現れた。
途端、兵士も諸侯も一斉に膝をつき項垂れる。

平伏した人々の間を兵士に担がれた輿は進む。

限りなく無音に近い中で行われた一連の流れは神聖な儀式を覗き見しているような錯覚を私に与えた。
端から見ているこちらの肌が粟立つ程の緊張感のなか、部屋の前に置かれた輿は地におろされつき従ってきた二人の侍女の手が天蓋の布に掛かる。

そうして中から現れたのは月の化身とみまごうばかり白銀の姫君。

美しさに溜め息がでるという表現があるけれどもそんなものではない。
彼女の美は息を止めそのまま吐き出すことを許さない程凄まじいものだった。
「マナ。」
知らず知らずの内に息を潜め体をこわばらせて魅入っていた。
そこに掛けられた老師からの声に振り向けば指先で扉の横に退くように指示される。
慌ててそっと扉を閉じドアの傍らに控える。
間を置かず扉は外側へと開かれた。

薄暗い部屋の中に光りが差し込んできて眩しかった。
「面倒事が嫌ならば頭を下げておれ。」
その光に目を細めた後、杖に縋るように立ち上がり老師は警邏兵の手により全開にされた扉から外にでる際にそっと耳打ちしてくる。
慌てて頭を下げ、それでもやはり外の様子が気になり聴覚神経を目一杯研ぎ澄ませた。




老師の出迎えの口上の後、授業は始まった。
部屋の外には兵士がたくさん詰めているがここにいるのは私たちだけだった。
正直あの人数の前で勉強する気にはなれないからありがたくはある。

どういう仕掛けか防音は完璧な部屋の中、老師はやけに張りのある声で言った。
「これは魔具と呼ばれる物でございます。」
老師の手には小さな石のようなものが握られている。「アガシオンと同じく物に精霊(ジン)を封じ込めたものじゃが、アガシオンと違い一度封じ込められた精霊(ジン)は魔具が壊れるまで出てはこれんのですわい。しかし、魔具自体に魔法効果を及ぼす事が出来る。」
ふわりと笑い、老師は私の手にその小石を渡した。
「あれっ…冷たい?」
今まで老師の手にあったはずの小石は少しもその熱を吸い取ることをしなかったのか氷のような冷たさを私の肌に伝えてきた。

否、寧ろこれは氷そのものだ。
冷やされ過ぎた手が痛みを如実に訴えてくる。
突き刺すような鋭い痛みに思わず床に小石を落としてしまう。
するとそれは跡形もなく砕け散ってしまった。

「あぁっ!!!」
悲鳴が思わず口からあがった。
青ざめて老師の方を見たが苦笑が帰ってきただけだった。

「良い良い。どうせ中にはジャーン一匹しか入っとらせん。しかし普通、例えば食物を保管するときに使う入れ物などにはジャーンを何十匹も…場合によってはジンを入れることもあることは姫は御存知でしょうな。」
冷たい箱に食べ物って――まるで冷蔵庫だ。
「アガシオンと魔具の大きな違いにもう一つ応用がきかんと言うことがあります。アガシオンはその中の精霊(ジン)の力量の範囲で何でもさせる事が出来るが魔具は予め仕込んでおいた術式を精霊(ジン)の力を吸い取り発動させる事しか出来ん訳じゃ。今の小石には冷気を司る紋が仕込んでおったのです。魔具の利点は使用する者が魔力をもっていない普通の人間でも構わないという事ですが――まぁ、姫にはシャイターンがおられる。魔具を使わずともシャイターンに命じれば良いですがのう。」
シンシアには魔力は殆どないらしい。
魔力が無くても精霊(ジン)の力を利用出来るところは魔具もマジュヌーンも一緒であるらしいけれど、まぁマジュヌーンは誰でも利用できるって訳ではないし、何より弊害の方が大きすぎるのだが。

そしてジャーンはつまり、向こうで言う所の電気の変わりとして此処では利用されているらしい。
大量に集めて纏めて封じて使うのが一般的と言うことだ。
他にも夜に光を放つ魔具や火を使わずに中に入れた物を焼き上げる窯の魔具などもあるという。
私のしる言葉で言えば電灯とオーブンと言うところだろうか。
勿論魔具を作る為には高い魔力や知識が必要にはなるから、値段は驚くほど高い(どれ位かはわからないけれど小さな魔具でさえ普通の人が半年は遊んで暮らせる額らしい)が便利ではあるのだろう。

ここで少し違和感を感じる。
私の中で魔法使いのイメージは杖を振りかざし呪文を唱えて〜と言う物だった。
けれど老師もゲイルさんも呪文を唱えているのを見たことがない。
それについて尋ねると、
「長々とした小難しい呪文を唱えるより精霊(ジン)に一言命じた方が簡単じゃろう。遠方ではまだ呪文魔術が根付いている国もあるがのう。呪文ならばその度に魔力を使わねばならんが儂等は精霊(ジン)と契約するときに魔力を使えばあとは何もせんでいいしのう。効率の問題で呪文を使う魔法は淘汰されたようじゃな。」
なんとも横着な話だ。
今や、精霊(ジン)との契約時の呪文しかほぼ伝わってないらしい。

「もう一つ、魔具の中には高位の精霊(ジン)が作り出した物もありますのぅ。精霊(ジン)の中には気に入った魔術師と契約する時に自らが封じられる装身具を魔術師に与えることがある。それは魔具としての質も人が作ったものとは比べ者にならないほど高いし、魔術師が死に精霊(ジン)との契約が切れた後も使える優れもんじゃが――何しろ絶対数が少ないから大抵はどこぞの国の国宝に収まっているののが殆どですわい。」

「精霊(ジン)との契約ってその魔術師だけに有効なの?例えばアガシオンの宝石を誰かに上げたりする事は無理なのかしら。」

シンシアはとても良い生徒っぷりを遺憾なく発揮していた。
この世界の『常識』という名の予備知識の存在を抜かしたとしても私と比べその理解力は驚くほど高いし教えられた物をただ漠然と飲み込むだけではなく的確な質問を投げられる程応用力もある。

多分本当の意味で頭が良いんだろうと思った。
老師もそんな生徒に嬉しげな様子で相好を崩した。
「出来なくはありませんが、譲渡する相手にその精霊(ジン)を使役できる魔力が無ければなりませんのう……基本的には契約は当事者同士でのみ絶対的な拘束力を持つんですので余り誉められた行為ではありません。精霊(ジン)とのアガシオンの契約はその魔術師の命数つきるまでの主従関係ですから。これは姫にもマナにも覚えてて頂きたいんですが精霊(ジン)は『契約』を破ること――違うな、自らたてた『誓い』を破ることが出来ん生き物なんじゃ。そして我ら魔術師もまたその『誓い』を破らせないことが主としての最低限の義務と代々伝えております。アガシオンの譲渡はこの暗黙の了解を破る行為の上に元々の契約を消して新たな契約を結んだのではなく元の魔術師の術式はそのままで鎖で繋がれた囚人を魔力と言う暴力で別の主が無理に従える形です。――ので元の主への忠誠も薄れ、新たな主への忠誠もない。もし新たな主の力が弱まれば精霊(ジン)は命令を聞かんどころか躊躇なく攻撃してくる。」

ふとポチ君の事を思い出した。
あの時――シンシアが襲われた時、ポチ君は何度も指輪の中の精霊(ジン)を呼んでいた――けれどもレキはいくら呼んでも出てこなかった。「もしかして……レキは…」
ぽつりと呟いた言葉に老師が深く頷く。
「あの小僧も魔力が無いわけではないのだがせいぜい市井の怪しい呪い(まじない)屋をやるので精一杯のレベルじゃろう。しかし、あの指輪に施された術式はかなり高度の物じゃったからのう。間違いなく誰かから与えられた物じゃろう。あれは当初元々の主結んだ『契約』が半ば破られた状態だった故に簡単に主の名前を喋った。本来ならばアガシオンに主人の名前を吐かせるのはとても骨が折れる仕事なんじゃが……。」

じゃあ、あの時レキが出てこなかったのはポチ君が本当の主じゃなかったから?
あれ?でも、アガシオンの譲渡はできるんだよね?

そのことを尋ねようとした瞬間老師が授業の終了を告げた。





****







「失礼いたします。」
後宮(ハレム)に位置する一室でゲイルシュターは深々と平伏する。
本来王族ではないゲイルシュターは後宮(ハレム)には入ることが許されない。
しかし、彼を此処へ呼び立てたのは此処の主とも言うべき女性その人であった。

彼女――太后アーデルヒルトは相も変わらず黒ずくめのドレスを纏い、ベールの下で微笑んだ。

「君がリヒトに行くんだってね?」
リヒトまでは馬で三ヶ月。
船で一月。
しかし、高位の精霊(ジン)の力を持ってすれば一週間で目的地に着く。

「ってことはあの娘の力は本物なんだ。」
しかし、精霊(ジン)が実行犯と見られる『王殺し』が横行する今、イフリートを持つゲイルシュターを王宮の守護から外すのは本来ならば自殺行為である。
そんな愚行としか見えない行為をおかさせる事となった少女の顔を思いおこし、太后は喉の奥で低く笑った。
そのまま、ツイっと視線を足下に落とす。
拍子に娘と同じ紫銀の髪が一房肩から落ちる。




そこには四肢を拘束されたまま無造作に転がされている少女――否、少年がいる。
「ポチ……向こうの言葉らしいから意味は分からないけど可愛い名前だね?顔も…シンシアのお眼鏡に適うだけはある。」
「………」
今日は轡をはめられていないもののポチと名付けられた少年は無言で太后を睨み付けた。
「犬によくつける名だと聞き及んでおります。」
ゲイルシュターの奏上に太后は笑い声を大きくした。
「それはそれは。正に『かませ犬』って訳だ。」

黒のシルクに覆われた優美な指先がしなやかな動きでポチの顎を救う。
「太后様…。」
「大丈夫、顔を見るだけだよ。いくら駄犬でも噛み付きはしないよ。その程度の躾はシンシアがやってるもの。シンシアは自分のモノを他人に見せるのが嫌いな子だからね。留守時を狙わないと。」
言葉の通りポチの双眸は鋭くはあるものの怯えの色も色濃く映している。
捕らえられてからずっとその身を拘束するイフリート――ミスハルの力は彼の反骨心を砕くのに十分だったようであった。

「可哀想に、君は捨てられたんだよ。今うちにはどんな精霊(ジン)もはだしで逃げ出す“化け物”がいるからね。」
捨てられた、の単語にポチは大きく反応する。
消えかかっていた反抗の炎がその眼に灯る。
「大方、ソーマを攫った後のうちの様子をご自慢の精霊(ジン)で探らせようとして出来なかったんだろう?だから、たかが第四位のジンを持たせて、様子見に君を送ったんだろう?完璧捨て駒だね。はっきり言って君には人質としての価値さえない。」
今にも咬み付きそうなポチの視線を受けても些かも怯むことなく太后は歌うように言った。

「………すごいね、あの子。」
暫くその苛烈な表情を楽しむように眺めた後、太后は呟いた。
「私たちが必死になっても防げなかった物を無意識に防げるなんて。」

「彼女は何もしておりませません。ただ、精霊(ジン)たちが勝手に彼女を恐れて近づかないだけです。」
「別に方法なんて聞いてないよ。私が興味あるのは結果だけだからね。」

ふと笑みを消し、太后はゲイルシュターを正面から見た。
「足りないと思わない?」
「…何がでしょうか?」
「主従の契りじゃぁさ、きっとあの子ハルを取り返したら帰っちゃうよね?」
ゲイルシュターは二、三度その言葉を租借するように瞬きした後、微笑んだ。
「我々は『王殺し』に対抗する手段が必要です。――一時的なものではなくできるだけ長い時間効果のある手段が。」
わが意を得たとばかりに太后も満足気に笑い返す。

「確かに、もっと強い契りもありましょう―――たとえば」

男女の契りなど

太后と宮廷魔術師は艶やかに微笑みあった。
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