stray

20

思い出すのは真夜中の台所。
真冬にパジャマのまま、靴下もはかずにそこにうずくまった。

足の裏からは体温といっしょにいろんな物が流れ出て、私は声も上げず泣きながら震えていた。

理由は色々あるのだけれどそんな物は頭の中から飛んでいて、残っていたのはただ純粋な『恐怖』だった。

シンと静まり返った台所で小さく響く自分の嗚咽を聞きながら手の中で鈍く、冷たく光る『ソレ』を前に私は自分への嫌悪感で潰れそうになっていた。


****

この世界のこの辺りの地域はどうやら今夏らしい。
はたしてこの辺りの気候区分はどうなっているのだろうか。
高温多湿の日本の夏とは違うカラリとして、唯暑いだけのその日の早朝、ゲイルさん率いる正式な密使(何だそれはと最初思ったが太后が個人的に出す使いではなく国の代表として出すという意味らしい。)はリヒトへと発っていったらしい。


私は夢見が悪くて酷く疲れきってはいたけれど居候の身でいつまでも寝ているわけにもいかずのろのろとベッドから這い出た。

朝から元気に働いているニコニコメイドさん(男)と老人のように朝に強い、表情筋を石膏で固めたような私の召喚主様は当然のように既に活動を開始していた。
リドの表情が何時もより固いのはきっと気のせいではないのだろう。

結局会話らしい会話もないまま朝食は終わり、リドは執務室へと向かった。
私も後宮(ハレム)へと向かうまではとその後ろに付き従う。
久し振りの外出で疲れたであろうシンシアの事を考えて今日は少し遅めに訪ねて行くことにしたのだ。

ここ最近は後宮(ハレム)にばかり行っていたせいで久し振りに足を踏み入れた執務室は惨憺たる有り様だった。

「うわぁ……」

前に来た時は主の性格を映したように整然と片付けられていた筈の部屋は今や書類に占領されていた。
思わず見上げたリドの表情は何時も通りの物ではあったが、何となく現状に辟易しているような感じも受ける。
「……手伝えることある?」
一応たててみたお伺いに返ってきた答えはさっくりとしたものだった。
「文字も読めん奴など問題にもならないな。」

はい、ごもっともです。
すいません役立たずで。
座って大人しくしてます。

いや、それにしても―――

「凄い量だね…。」

「陛下の不在を嗅ぎ付けた諸侯が動き出した。ついでにその諸侯の動きを嗅ぎ付けたランカーシャーがどうもきな臭い。」

椅子に座るやいなや、おそろしい勢いで書類を処理し始めたリドはそれでもきちんと私の話を聞いてくれていたらしい。
ただ、その答えの中にあった耳慣れぬ単語に私は手持ち無沙汰に揺らす足を止めた。
「ランカーシャー?何それ。」
「うちの隣国の名前だ。リヒトとの間に位置する国でそれなりに大きいが国土の大部分は砂漠の乾いた国だな。『バドル』にとっては――」
手を動かしたまま丸覚えした情報を暗唱するように流れ出る言葉に顔をしかめる。
また出た、知らない単語。
うっとおしがられる事は百も承知で再度口を開いた。


「『バドル』って誰?」


ぴたりと、それまで淀みなく書類の上にペンを滑らせていたリドの手が止まった。
「…知らないのか?」
信じられないとでも言うようにどう目したリドの表情は彼にしてはとても珍しい物で私は思わず目を瞬かせた。

あれ?前に教えてもらったっけ?

「この国の名前だぞ?」

ここに来てどれだけたったと思っているんだ、と呆れ果てた声で言われてしまった。
そう言えば異世界に飛ばされた人間としては真っ先に聞き出すべき情報ではある。
けれど私は現在位置を『異世界』という大雑把な括りでしか捉えていなかったからそんな事訊こうとも思っていなかった。
現実、知らないことでなんら不便さを感じなかったし。

「あはは……」
曖昧に笑うとリドは深い溜め息をついてまた視線を手元へと視線を落とした。
せめて邪魔だけはしないようにしようと部屋の隅へと行こうと立ち上がった。

「ちょっと待て。」

「ん?」

背中にぶつけられた声に立ち止まり振り返る。

「今『バドル』は『誰』だと言ったか?」

視線の先にあった予想外に険しい顔に思わず気圧された。

「何故『バドル』を人だと思った?」
何をそんな怖い顔をしているのだろう。
「べ…別にちょっと勘違いしてただけだよ…」

「勘違いじゃあない。」
「へ?」

「『バドル・シャーレンドラ』始祖王の名前だ。」

始祖王――この国を創った人だ。
そして、そのことが指し示す事実にハッとする。

「お前がかつて契約を結んでいたお方だ――貴様、本当に何も覚えていないのか?」

鋭い視線が向けられる。
そこに含まれる紛れもない疑心の色にびくりと体をすくませた。

「おっ覚えてないよ!?」
これは本当のこと。それでも冷たい視線に耐えきれず俯く。
今、リドは疑っているのだ。
私が本当は精霊王(イブリース)だったころの力や知識があるのに出し惜しみしているのではないか、と。

誓って今の私は力も記憶もない。

けれど、疚しい所はあるせいで私は視線をあげることが出来なかった。

そんな状態が更なる不信を煽るだけだとは分かってはいるのに。
あぁ!!何故迂闊なことを言ってしまったのだろう――
覆水盆に返らず。
言ってしまった事はもうどうしようもなくて唇をきつく噛んだ。

「あの…私…もう、行くね!!」

卑怯だけどとりあえずしきり直さなきゃどうしようもなくて私は執務室から全速力で逃げ出した。
「待て!!」
背後から呼び止める声と椅子を乱暴にひく音がした。

ヤバい!!追ってくる?!!

コンパスの長さも体力も私とリドでは比べものにもならない。
けれど捕まるわけにはいかなかった。
このままこの話題を突っ込まれ続けたらきっと『切り札』について話さなければならなくなる。
それは何が何でも避けたい。

いつも通りのルートを通っていたら直ぐに追い付かれる気がして私はいつもとは違う角を曲がった。



****

紫銀の髪がサラサラと肩から流れ落ちるのも構わずシンシアは楽しげに微笑んだ。

「やっぱり似合うわ。」
雪花石膏から一流の彫刻家が掘り出したとみまごうばかりの透き通る白く優美な指先が少女のように着飾らさせられ、事実少女にしかみえない少年の顎を掬った。
巨大な白蛇によって自由を奪われた彼の白く細い首には昨日までは無かった蛇を象った首輪がはまっている。
シンシアの髪と同じ色で鈍く妖しく光るそれは先ほど老師が献上した魔具であった。
「王宮の外にでる。誰かに害をなそうとする。そのどちらかをすると絞まるんだって。」
鎖はどこにもないがそれはまさに首枷そのものだった。
「さぁ、もういいわ。」
二三度感触を確かめるかのように首輪に触れた後、シンシアが命じる。するとそれまで少年を拘束していた白蛇は床へ溶けるように消えていった。

「ねぇ、ポチ。」
シンシアは唯一人の異世界から来た友人がが名付けた名を呼びふわりと笑う。
そして薄紅の唇を綻ばせながら言った。
「私と契約しません?」


*****




単刀直入に現在状況を説明したい。
迷った。

考えれば火を見るよりも明らかな結末ではある。
私は未だにこの広大きわまりない王宮の総面積すら知らないのだ。
迷路のように入り組んだ此処でたった一つ覚えたルート以外に足を踏み込めばこうなることは当然の帰結といっても過言ではない。
しかも困ったことに辺りには人っ子一人見あたらない。

周りの風景には全く見覚えないのにこの状況にだけなら酷く既視感を覚えた。


「…あぁ!!!」

とにかく人を探して後宮(ハレム)に連れてってもらわなければ。
永遠に続くかと錯覚させる程長い廊下の両脇にある扉を一つ一つノックと共に開けるもののそのいずれも無人で仕方なく、部屋に人の気配があるかを探りながら廊下を歩きまわって人を探す作戦に変更した。



頭を空っぽにするという行為は意外と難しい。
現に人を探すためにひたすら足を動かしている現在でさえ、思考は別の場所に飛んでいる。

今私の頭を占めるのは次にリドと会うときまで(最長で今日の夕食までしか猶予がないわけであるが)にさっきの件に関する上手いフォローを考えなければいけないと言う事だ。

「バドル…」

呟いた言葉は如何なる記憶も呼び起こさないけれど、その音は酷くしっくりと舌に馴染んだ。
「兎に角、知らぬ存ぜぬで通すしかないんだよね…」
正直に答えるわけにはいかない。


言うわけにはいかないのだ。

唯一つ、私が精霊王(イブリース)の力を取り戻す方法があるなど。


思考に沈んだ耳が大理石の床を踏みならすいくつもの足音を捉えた。
次いで廊下の行く手から何人かの人間の話し声が聞こえてくる。
その中に聞き覚えのある声を聞き止め、私は思わず惰性で動かし続けていた足を止めた。

あの声は例の嫌みな宰相のものに間違いがなかった。

もしなんの用もないのにこんな所をブラブラ歩いているのをみとがめられたら――また嫌みを言われてしまう。

否、それどころか変な言いがかりをつけられてリドの立場を悪くしてしまうかもしれない。
初対面時から植え付けられた苦手意識におとなしく従って、踵をかえそうと一歩後じさる。

「っ……」

嘘――後ろからも足音がするんですけど―!!?

仕方ない!!!やり過ごそう!!!

その場からの離脱をあきらめ一番近くの扉の取っ手に手をかけた。





部屋は薄暗かった。
いきなり光を制限された目が徐々にその暗さになれる。

何とはなしに一歩を踏み出し、硬質な床に弾かれた自分の足音がやけに大きく響いたのにびくりとした。
どうやら、ここは天井が高いらしい。

何のための部屋なのだろうか――

太陽光を排除した結果、涼しい室温を保つ部屋、壁には額縁がかかっているのがぼんやりと見える。
もっとよく見ようと足音をたてないように歩いた。

人――?

どうやらそれは肖像画のようだった。
ただ、その輪郭をはっきり捉える前に部屋の前が騒がしくなってきたのに気づく。

やばい。誰か入ってくる。

私が柱の陰に隠れたのと、宰相と何人かの人が部屋に入ってきたのはほぼ同時だった。





****





宰相が相対しているのは服装から見て、どうやら軍部の人らしい。

彼等は声を潜めて話してはいたものの、音がよく響くこの部屋では内容が聞き取れる。

「兵は何人用意できた?」
「そう人数はいらんだろう。三十人と言うところだ。」
「あの売女の犬がいない内にかたをつけたいが…魔術師はどうだ?」
「アーシャー老師以外は王宮にはいないようです。
「取りあえず市井の魔術師を三人ほど手配しました。」

いくつもの男の声が矢継ぎ早に会話を交わす。
いったい何の事を言っているかは分からないけれど、漂う不穏な空気は感じられた。
息を殺し、聞き耳を立てているとその内に相談が一段落したのかよし、と宰相が言った。

「決行は今日の中天の時。我らの手で玉座を『正しきお方』にお返しするのだ――!!!!」

おう、と同意を返す声が上がる。

「今の王は正しき王に非ず――真に我らが奉るべきお方は――先王の嫡子は別にいる。」

聞こえてきた言葉に思わず心臓が鼓動をとめた錯覚に陥った。

「夜闇に紛れるのではない。正々堂々、日のもとで、今日、我らは正しき王をお迎えする。」

一度止まったかと錯覚させられた鼓動は次の瞬間には宰相達に聞こえるのでは心配するくらい程の自己主張を始める。

私は自分の心臓を宥める様にギュッと胸のあたりを握りしめ、じりじりと彼らが出て行くのを祈るように待ち始めた。
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