stray
23
邸へと歩進めるリドワーンは突如目の前へ現れた姿に軽く瞠目した。
それはこの場所に似つかわしくない、というかこの場所にいてはいけない人物の姿だった。
しかし、リドワーンを驚かせたのはそう言う要因ではない。
生まれてからの殆どを宮殿の深奥で過ごし、今はそこから自力で抜け出せぬ筈の相手が、動かない筈の足で立っている姿を見たからではなかった。
そこにいたのは確かにリドワーンが仕えるべき主の半身、シンシア・シャーレンドラの姿をした少女だった。
けれど、一目で彼の姫君ではないと知れる少女だった。
黒い髪を靡かせ、赤い大きな瞳を瞬かせ、しかし形だけは姫君そのものの少女は口を開く。
そしてまた、薄紅の口唇から流れ出た声も姫君のものだった。
「シンシアから――正確にはその母から伝令だ。」
彼の姫君の名の欠片を与えられた精霊(ジン)は平坦な声でリドワーンのこれまでの日々の終焉を告げた。
*****
彼の覚悟を、決意を、見くびっていたのかもしれない。
彼の主に対する思いの強さは私がお兄ちゃんに対する思いと同じくらい強いことは何となく感じ取っていた。
けれど私は「お兄ちゃんの脅威になるから」という理由でお父さんやお母さんを排除出来ない。
どちらも私にとって大切な人である。
けれど、彼は――
「太后の御命令だ。」
リドは切り捨てた。
ただ一人の為に、一欠片の逡巡も見せずに。
マリアさんはさっきと同じように冷静だった。
「そう。」
ただ、諦観の苦笑を浮かべて穏やかに頷く。
「いいわ。」
いや、いいわって――
「ちょとっ!!!マリアさん!!!何頷いてるんですか?!!!」
思わず叫び声を上げる。
「マナ、お前は黙ってろ。」
「いや、黙ってろって……!」
だって目の前で何だかんだと世話を焼いてくれた恩人が殺されかけてるんだよ?!!
こんな状況で黙れっこないじゃない!!!
「待ってよリド!!」
「マナ、いいのよ。」
「全然よくないです!!!」
リドが腰に帯刀していた剣を抜き放つ。
その長剣が反射した光とリドの眼光が同じくらい無機質なことに気づき、背筋を冷たい汗が伝った。
ただ止めなくてはという思いが体をマリアさんとリドの間に滑り込ませる。
「マナ…」
両手を広げマリアさんを背に庇いリドと対峙する。
「退け。」
短く発せられた命令に頭を左右に振った。
「誓いはどうした?お前はこの世界の何とも俺を秤にかけないのだろう。」
意地悪気な物言いに、私自身の言葉を盾にした言葉に、思わず従いそうになる。
けれど此処で私が退けばリドはマリアさんを殺す。
マリアさんはそれに抵抗しない。
確信できる絶望的な未来を回避するためにもここで退く訳にはいかなかった。
「リドはそれでいいの…?従兄弟なんでしょ?一緒に住んでるんでしょ?」
「マナ。いいのよ。ずっと前から決まってたことなのよ。太后が私を見逃してくれる限りでしか私は生きられないの…。」
後ろから優しく肩を叩かれて穏やかに諭される。
だけれどその内容は到底納得できる物では無かった。
「だってマリアさんは王になる気ないんでしょ?!」
「でも私が望まなくても、無理矢理にでも私を捕まえる人が出れば私はこの上ない纂奪の旗印になりうるのよ。」
私には理解できない世界だと強く思った。
理解できないからきっと私にはマリアさんを説得する事は出来ない。
だから私はリドを睨むように見た。
「リドはそれでいいの?」
再度問う。
「マリアさんと一緒に住んでたのはマリアさんを利用する人から守ろうとしてたんじゃないの?」
「ただのカモフラージュだ。こんな場所で一人で暮らしている男とも女ともつかん奴がいれば怪しまれる。外見での屋敷の主が偏屈で有名な公爵家跡取りならば全ての好奇心はこちらに向くと思っただけだ。」
私はその言葉を聞いて場違いにもかかわらず少し嬉しくなる。
僅かな希望の欠片を見つけた。
「ほら、やっぱり守ろうとしていたんじゃない!!!」
少し弾んだ様な勝ち誇った様な声でそう言う。
その時初めてリドの双眸が微かに揺らいだ。
「…違う。」
「違くないよ。リドとマリアさんは家族だよ。」
「マナっ!良いのよ。きっと貴女にはわからないわ。私達は確かに家族だし、それを抜きにしても友人だけれど。それでもリドはずっと前からこうなった時の覚悟を決めていたのよ。」
アナタにその覚悟はきっと崩せないわ。
とマリアさんは言った。
リドは私には伺い知れない感情を灯した目で私を見た。
私はそれを真っ正面から見返す。
暫く無言で見つめ合った。否、にらみ合った。
「退け。」
「嫌だ。リドは本心でマリアさんを殺すことを望んでない。私も絶対ごめんだよ。だから退かない。」
言外にリドの為、と言うことを強調する。
狡いようだけどこう言うことで契約の不履行を回避する。
お互いに一歩も引かなかった。
その均衡を破ったのは私の後ろにいるマリアさん。
マリアさんが背後で動いた気配に私は正直焦る。
自殺でもされたら私にはどうしようもない。
「ねぇ…」
しかし、予想に反し聞こえてきたのは楽しそうな、と言っても差し支えない声だった。
「貴女に賭けても良いかしら?」
意味不明な言葉と共にマリアさんは動いた。
先ほど奪った剣をもちあげ、そして――
「動かないで頂戴ね。」
その言葉は私に言ってるの?
それともリドに?
兎に角、気付いた時にはその剣は私の首筋に当てられていた。
「…マリア、どういうつもりだ。」
「どうって…人質のつもりだけど。」
「マリアさん…?」
「喋らないでねマナ。」
腕の中に囲われ、自由を奪われている。
えっと、この状況は――?
「何のつもりだと聞いている。」
呆けた私と暢気なマリアさんとは違ってリドの声はどこまでも冷たく固かった。
「貴方にとっても太后にとっても、マナに死なれたら困るでしょ?」
だから人質よ。とマリアさんはまるで今晩の夕食の献立でも答えるかのように言った。
「…逃げるのか?」
どうやら私がここで殺されるとリドが困ることになるっぽい。
これは私は逃げるべきなのだろうか。
私だって死にたくないし――でも今の私には死に瀕したという危機感がまるっきり欠如しているのだけれど。
逡巡の後に体を動かそうと試みようとして私は動きを止めた。
先刻と違いきっと私が多少でも暴れればこの戒めは解ける。
けれどマリアさん逃げるか否かを聞いた時のリドの目に浮かんだ色には今更マリアさんが反抗した事に対する困惑と、微かな安堵が見て取れた気がする。
リドの、確かにあるマリアさんがここから逃げることへの期待は私をマリアさんの『人質』の位置に止まらせるのに十分な力を持っていた。
「まさか。例え城下に下りれた所でいずれ捕まるのは目に見えてるもの。」
「ならば…馬鹿な事はやめろ。そいつを離せ。」
腕の中からマリアさんを見上げると鮮やかなエメラルドのような視線とかち合った。
本当に一体どうする気なのだろうか。
「私は今からマナを人質にとって牢に立てこもることにするわ。」
私の無言の問いかけをにっこりと笑って黙殺しマリアさんは私に剣を突きつけたまま歩きだした。
半ば引きずられるように私もそれに従う。
「マリア!!!」
当然のように苛立った声が追ってくる。
「別に牢なら逃げられないし良いじゃない。それとも何?『最期』に少しだけお話することもできないの?」
「……兵舎の牢を使え。」
何かをいいかけ止めたあと、リドはそう言った。
*******
「ごめんなさいね。こんな場所に連れ込んじゃって。」
着いた先は地下にある牢獄だった。
正確には規則を犯した兵の懲罰房らしいが今そこには誰もいなかった。
リドは懲罰房と地上をを結ぶ階段の先の廊下の見張り兵用の椅子に腰掛け、私たちは地下に降り鍵もかかっていない牢に入った。
「いえ、上より涼しいですし。」
灯りは蝋燭だけの地下は薄暗く、空気も澱んでいてお世辞にも快適とは言えなかったが私はそれだけ言った。
「……逃げるんですか?良いですよ。私にその価値があるなら人質にしても。」
ポツリと呟く。
「無理よ。例え衛兵の手をかいくぐって城下に下りても精霊(ジン)に三日もあれば見つかるわ。」
即断で返された。
それにしても精霊(ジン)ってどんだけ便利なのか。
おおよそ、不可能なんてないんではとさえ思う。
「ねぇ、マナ。」
「はい。」
「リドは強いけど、決して傷つかない訳じゃないわ。」
私はまじまじとマリアさんを見詰めた。
「昔話をしましょう。先代が即位されてすぐのことよ。先代は即位時のの混乱から后を迎えるのが遅かったの。でも、まぁ、若かったから。彼は一人の端女に手をつけた。なんの因果か彼女は男子を産んだ。産んでしまった。」
いきなりの話の転換に、しかも話し始めた内容が内容で、正直戸惑いが先にくる。
「時を同じくして先王の後宮(ハレム)に正当な后が輿入れをしてきたの。当時の国勢は外交よりも内政を重視する風潮があったのね。その后は国内最有力の公爵家の一人娘として誰からも王太子を産むことを期待されていた。そして、彼女は持ち得る力を総動員して障害を排除した。」
「それって…」
「えぇ。私と母の存在を抹消したのは太后ではないわ。当時の太后にそんな力はないもの。」
そう言えば老師もそう言ってた。
「ローゼンベルク公爵家。そして、その娘。」
「リドの、お母さん…。」
「その後、リドの母親は太后との寵愛争いで敗れ先王の弟に降嫁したんだけどね。」
皮肉よねぇ。というマリアさんの表情は別段普段と変りなくて、そのことが逆に胸を締め付ける。
私が見る限り、二人は何事もないように暮らしていた。
けれど二人は、何を思ってあの邸で二人きりでで暮らしていたのだろうか――
*******
地上へ続く階段をあがる。
そこにはさっきから寸分も体勢を変えていないリドがいた。
私の気配にそれまで閉じていた目を開く。
しばし無言でこちらを見遣ったあとたてかけてあった剣を片手に立ちあがった。
「待って。」
「…邪魔をするな。」
マリアさんは言っていた。
リドはずっとお母さんのしたことの償いでマリアさんを匿っていたんだと。
けれど、いつかこういう日が来たらマリアさんを殺すきでいたことを。
身勝手な、と切り捨てることは簡単だ。
けれど、罪悪感を押し殺して忠誠と家族を天秤にかけるリドを思うとそうすることができなかった。
選んだ結果リドは必ず傷つく。
この人の事だからきっと表面上は何も変わらないだろうけど、それでも傷ついていることには変わりはない。
「大事なものどうしを秤にかけて片っぽを選ぶのは苦しい事だよ。」
「俺は選んだ。その後の苦しみを俺が背負うことに何の異存もない。」
「大切なものが二つ以上あっちゃいけないの?どうしても譲れない物がたくさんあっちゃいけないの?」
ならば、私は――
「一日…半日だけ待って。」
私はどうだというのだ。
切り捨てられないものがある。片方捨てれば片方は安全なのに、私は両方捨てられずにいる。
だから、私には今のリドの気持ちがわかった。
そんな苦しみを知ればリドはきっと変わってしまう。
そんな苦しみをこの人に味あわせたくないと心底思った。
「誓約を忘れたか?」
リドが私を押しのけて進もうとするのを阻む。
「私が太后さまに命令を撤回してもらうから。だからお願い、半日だけ待って。」
「お前はこの国の人間ではないのに無責任にこの国の行く末に干渉する気か?」
明らかな怒気を含んんだ言葉にびくりとする。
けれど私は引かなかった。
いずれ帰る私がこの世界に干渉することはほめられたことではないのはわかっている。
けれど、私は――
「私はリドの僕(しもべ)だよ。」
だから
「私は召喚主(マスター)に主人も家族も、どちらも捨てさせない。そんな選択をさせない。それが――」
私の忠誠の示し方だ。
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