Love is War

「アディ」

柔らかく揺るぎないマーニの声。
その声で名を呼ばれる度にまるで暖かな海でたゆたうようなふわふわとした感覚がアーデルヒルトを包む。

今まで愛称でなど呼ばれた事は無かった。

父に取っては数多の妃に手を出して作った数え切れない子供の一人でしかなく、母に取っては王の寵愛を受けたと世間に示す証でしかなく、兄姉に至っては王位を争う邪魔者である。ヒルダを始め家臣たちの中には良くしてくれた者もいたがそれはアーデルヒルトの王の才に己れの行く末を賭けたからであって彼らにとってのアーデルヒルトはなによりもまず絶対的な『主君』だった。

だから無条件に優しい声で、しかも慣れぬ愛称で呼ばれるとどうしてもこそばゆくて緩んでしまうのだ。物心ついてからこの方闘うために被り続けていた仮面が。



*******


「お休み、アディ」
今夜もマーニはアーデルヒルトの元を訪れた。かといって王が後宮(ハレム)の妻を訪れた場合にお決まりである『事に及ぶ』と言うことが全くない。
マーニはいつも夜にフラりと現れてアーデルヒルトと同じ寝台に入りはするものの何をするでもなく彼女を寝かしつけ、そのまま添い寝をして早朝フラりと出ていってしまう。
最初はそんな異常な状況で眠れる筈もないと思っていたが、アーデルヒルトの王女としての矜持も何もかも緩ませる声で呼ばれ、物心ついてからこの方殆ど覚えのない人肌の温もりにつつまれながら大きな掌に背中を優しく叩かれるともう駄目なのだ。いつの間にか意識は瞼の裏の暗闇に溶け、翌朝ヘルガに起こされるまで目覚めない。

まるで魔法のように、マーニはアーデルヒルトを寝かし付ける事が出来た。

アーデルヒルトは己の容貌が武器に成る程美しい事を十分に弁えていた。自身を過大評価も過小評価もしていないからこそ、マーニの態度はアーデルヒルトを混乱させた。

幼い頃からそういう目で見られることに慣れてきたのだ。

「何を考えてらっしゃるのだと思う?」
寝台の上のアーデルヒルトとその横にたったヘルガは揃って首を傾げた。
「いっそ幼女趣味であって頂けたらわかりやすいのですがその兆候も御座いませんしねぇ」

そう言ったヘルガの顔は何時も通りの笑顔であるものの、目の下には化粧で隠しきれないくまがうっすらと色付いている。
仕える妃が王を迎えると言うのは後宮(ハレム)の女官にとって最大のイベントである。故に一通り準備するだけでも重労働なのだ。
完璧に部屋を整え、香を炊き、最高級の酒と軽く摘まめるものを用意する。それだけではなく、女主人を湯に入れ、肌を磨き、髪をくしけずり、香油をかけ、衣装を上品にに、けれど決して寝所に入らせるのを躊躇わせない程度に簡素に纏めなければいけない。
全てに侍女のセンスが――ひいては侍女が仕える妃のセンスが問われるのだ。

そんな神経を磨耗する作業をヘルガはもう一週間も続けている。昼間はアーデルヒルトの世話とマーニを迎える準備。夜はいつでも用を申し付けられる様に隣の部屋で不眠で待機。それとは別にヘルガは他の『仕事』もこなしている。
流石に疲れが見える侍女をアーデルヒルトはじっとみやる。その視線に気づいたヘルガは安心させるかのようににっこり微笑むと話を振った。

「夜遅くまでお声が聞こえますが何をお話なさっているんですか?」
溜め息がアーデルヒルトの口から漏れた。
「……お伽噺よ」
どうやら彼は子供を(実に納得できないがマーニは未だ徹頭徹尾アーデルヒルトを子供、というより赤子扱いする)寝かし付けるにはお伽噺をしなければ、と思っている節がある。

マーニの立場から言って当然他の誰かにそれをしてやった事などないのだろう。たどたどしく語られるそれはアーデルヒルトを育てた乳母のものに比べれば聞くに耐えない物ではある。

けれどもアーデルヒルトを弛ませる事にかけては何より効果的なマーニの声で、アーデルヒルトが聞いたことのないこの国の昔話や神話を語られるとつい聞き入ってしまい、終いには傍らにある人肌の熱と一定のリズムを刻むマーニの鼓動に包まれいつの間にか眠ってしまうのだ。

今夜こそは真意を、と意気込んでいたはずなのに気付けば朝の光に目が醒める――たっぷり睡眠を取れるので肉体的には調子がいいが、精神的にはかなりの敗北感が伴う。

溜め息も出ようと言うものだ。

「悪いわね、ヘルガ。貴女の『仕事』を増やしてしまって」
夜毎アーデルヒルトの元へ通う王。その訪問の積み重なりはつまり、王の寵愛を受けれなかった妃の存在を示すのだ。
今、マーニに子はいない。次代の王を産もうと目論む数多くの妃が焦燥に眠れぬ夜を過ごしているのだろう。いずれも高貴な血筋に生まれ、美貌に恵まれ最高の教育を受けて我こそがこの国の王の寵愛を得んと自信に満ち溢れた姫君達ばかりである。

そしてその様なやんごとなき方たちが何時までも己の美容にわるい不眠の原因を放置するとは思えない。
「お心遣い感謝いたします、姫。けれどお気になさらず。姫は雑音など気にせずお好きに振る舞いください」
妃や王の臣下の命を請け、恐らく水面下では相当数の人間が暗躍している筈だ。けれど彼らの企みを雑音だと斬って捨てたヘルガにアーデルヒルトは頼もしげな視線を向けた。


****


ハティは軽やかな足取りで目的地を目指していた。
手にはいかにも子供が喜びそうな甘い焼き菓子と砂糖細工の入った籠を持っている。
廊下ですれ違う侍女達はハティの姿を見ると慌てて端に寄り深々と腰を折った。

本来、この後宮(ハレム)の廊下を自由に動き回れる男は唯一人である。

そしてそれはハティではない。

しかしハティの足が止まることはない。
愉しげな、と表するに相応しい歩みが止まったのはつい先日後宮(ハレム)に入ってきたばかりの妃に与えられた部屋だった。

部屋の入り口に立っている警らの宦官がハティを認め、声をかけてくる。
「何かご用でしょうか殿下」
「うん、だから取り次いでよ」
「申し訳御座いませんが殿下と妃殿下方との接触は禁じられています」
「その禁は俺が姫に手ぇ出して孕ましたら不味いからかけられているもんだろ?なら、ここの姫なら大丈夫だと思うけど?」
「けれど…規則でございますので…王弟殿下!!」

制止を無視して部屋に入ろうとするハティに宦官は悲鳴めいた声をあげる。
しかし、太子がいない今、王位継承権第一位の王弟に強く出れる者などいない。
「大丈〜夫。今回のは兄上のお使いだから」

ヒラヒラと手を振り、ハティはそのまま部屋に入っていった。




「ようこそいらっしゃいました。王弟殿下」
王位継承権第一位。現王マーニに王子が出来るまでこの国で二番目に貴い御人を前に頭を垂れたアーデルヒルトは失礼にならないように注意深く王弟を観察する。
二つ違いだと聞いた。顔立ちも体格もマーニに良く似ている。

けれどアーデルヒルトは二人を見間違えることは一生無いだろうと確信していた。

「いやぁ、いいねぇ」

上機嫌さが即わかるような声でハティは笑った。

そう、パーツ一つ一つ見比べればマーニとハティは良く似ていた。けれど、纏う雰囲気、声の質は別物だった。
「兄上の他の嫁君達は皆いつか俺の位を自分の子が奪うんだ、お前に頭を下げるのも今だけだぞ〜って本心隠そうともしないから、君みたいに素直に礼を尽くして貰えるとやっぱ気持ちよいよね」
溌剌と実に返答に困る事を言いながら王族らしからぬ笑い方でカラカラと笑った。

マーニはいつも夜の海のように静かに笑う。
そしてアーデルヒルトはそんなマーニの笑い方を内心好ましく思っていた。アーデルヒルトは冷めた目でその笑顔を見詰めると口を開いた。
「…御用件は?」
「あぁ、そうだ。ハイ、これ。兄上から」

「陛下から?」
知らずアーデルヒルトの鼓動が速くなる。

「暫く来れそうにないからって。悪いね。今少しだけ政が紛糾してて」
「…そう…ですか…」
くすりと笑い、ハティはアーデルヒルトに手を伸ばす。
「そんなに悲しそうな顔をしないで。なんなら今宵は俺が添い寝してあげようか?」
長い指に髪を鋤かれる。

反射的に其れを叩き落とした。

気にすることはない。先に礼を失したのは相手の方なのだ。

「いくら王弟殿下とはいえ私には触れないで下さいまし。」
それまで静かに控えていたヘルガが音もなくアーデルヒルトとハティの間に割って入る。
「お帰り下さい」
後宮(ハレム)の妃はすべからく王の物だ例え王弟であれ手を出すことは許されない。
だから後宮(ハレム)には宦官が詰め、王でない男と通じた者は例え下女であろうと重罰を受け処刑されることも珍しくない。

全ては正統な王の血を残すため。

本来王でない王族の男は『黄金の鳥籠』と呼ばれる部屋に幽閉される決まりである。
「……彼処は今は俺独りぼっちだから寂しいんだけどなぁ」
大して堪えた風もなく何故か自由を許されている王弟が呟いた。

「別に子供の頭を撫でるくらい兄上は気にされないよ」

――それとも何?君は兄上から『幸運』を貰ったの?――

かっとアーデルヒルトの頭に血が上る。
あからさまに子供扱いされ、妃として見なされなかった。

その衝動のまま薄笑いの顔面に手に持った茶器を投げつけようとした瞬間ハティは立ち上がる。

「まぁ、帰れって言われれば帰るけどね」
この人は自分に喧嘩を売りに来たのだろうか。
胸の内に沸々と沸き起こる怒りにカップを握り締める。
「でも良かった。その様子だと兄上は幼女趣味、と言うわけでは無さそうだね」
更に人の神経を逆撫でするような事をいいつつ、ハティはアーデルヒルトに背を向けた。

「今宵兄上は此方へは渡られない。出来ればこの機会に兄上の足が此処から離れるように仕向けてくれるとありがたいな」

急に言われた不可解な要望にアーデルヒルトは怒りを飲み込み純粋な疑惑の目をハティに向けた。アーデルヒルトに顔だけ振り返ったハティの顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。
けれどそれは先刻までのように底抜けに明るいものではなく何か得たいのしれなさを感じさせる物だった。

「兄上には他に通わなければいけない人がいる」

その声はあくまで落ち着いていて今までの軽薄さを欠片も感じさせない。

「……夜伽の相手を選ぶのは陛下です。何人たりとも陛下のご意志には逆らうことは出来ない筈ですが?」
一応言い返した言葉にくつりとハティが喉の奥で笑う。
「君は兄上に懐いているみたいだから言っておくよ。もし兄上が好きなら兄上が此処に来るのを止めさせるんだね。じゃなきゃきっと不幸になるよ…兄上も…彼女も…俺は出来れば二人に幸せになってもらいたいんだ」

「…どういう意味ですか?」
彼女とは誰か、アーデルヒルトが問うた途端、ハティの笑みに色濃く落ちていた得体しれなさ、陰が姿を消した。

「質問があれば何時でも『黄金の鳥籠』までどうぞ。姫は可愛いからお兄さんは何時でも大歓迎だよ。なんなら俺が降嫁先を紹介してやったっていい」
言いたいことだけ言って、ハティは帰っていった。

「姫…」
視線だけでその姿を見送った後、気遣わしげな声にアーデルヒルトは口を開く。
「貴女何処まで把握しているの?」
女主人に深々と頭を下げヘルガは答えた。
「……最近になって降嫁される妃様が増えておられます。加え、自国に帰されるお方も」

降嫁とは後宮(ハレム)の妃が嫁ぎ直す事だ。
正確には功績を上げた臣下に王から褒美として下賜される。

王の寵愛を受けれなかった妃達にとって降嫁は起死回生の道だ。王家には及ばないもののこの国の大貴族達は下手な小国よりずっと巨大な財力と権力を持っている。貴族達は王の覚え目出度い証として降嫁した元妃を丁重に扱う。そして祖国の威信をかけて最高の教育を受け、その美しさを認められた妃達の中にはその貴族の正妻にのしあがる者も少なくなかった。
珍しい事ではない。むしろ気になるのはそのあと。

「…国許に帰されるって穏やかじゃないわね」
他国から差し出される妃は言ってみれば同盟や恭順の証しだ。自国の大貴族に降嫁させるならばいざ知らず突き返すなど外交問題にまで発展しかねない。

(何か不自然ね…誰かが裏で暗躍しているのかしら?)

そこでアーデルヒルトはハッとする。
考えてこの謎を明かしてどうすると言うのだ?己の母后への道を邪魔するものとして排除しようとでもいうのだろうか?子を生めない自分が?

「……私には関係ないことね」
「姫…」
申し訳ございません、とヘルガの唇が動く。何回も、この国に嫁ぐことが決まってからヘルガはアーデルヒルトに謝罪する。
だがアーデルヒルトはわかっていた。ヘルガのせいではない。

悪いのは己の運の悪さなのだ。

「今宵は陛下はお越しにならないそうだから貴女もゆっくり休みなさい」

そう、この国の片隅でひっそり自分は朽ちていくのだ。
いずれ王弟や件の「彼女」も気づくだろう。
アーデルヒルトは太后の地位など望んでいない事を――



****


「…どう言う事…?」
真夜中、久しぶりの一人寝台の上で何度目になるか分からない寝返りを打つ。
久し振りのきちんとした睡眠に侍女たちは皆寝静まっている。

なのに、アーデルヒルトだけが眠れない。

王位を巡る争いに敗れたことがわかった時も多少の不眠に陥ったことはある。けれど、あの時と今では状況が違う。感情が高ぶって眠れないのではないのだ。

「…寒い」
傍らに体温がないだけで何故これ程寒いのだろうか。

ヘルガが添い寝をしなくなったのはアーデルヒルトが五歳のころで、つまり物心ついてからほぼ、アーデルヒルトは一人で眠ってきた。

なのに、今は眠れない。



やっとまどろめた頃、辺りはもう薄ぼんやりと明るくなっていた。

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